最終章 第2話

ノアートたちがこの地を訪れたのは、数刻ほど前のことだった。
 リースラント州から海を隔て、遥か南――。〝フロンティア諸島〟のひとつに、その小さな島はあった。
「なんなんだ、この島は……!?」
 島に上陸するなり、ノアートは絶句する。
 目に飛びこんできたのは、赤や黄色、青といった強い原色の数々だった。地面も岩肌も、一面見渡す限りの極彩色。まるで絵の具がぶちまけられたパレットのごとく、どこもかしこも毒々しい色合いで彩られているのである。
 目の前の異様な光景は、これまで旅をしてきたどの場所とも様相を異にしていた。これが、まともな自然の姿だとは思えない。
「おそらく、これもミストの影響なんでしょうねえ」
 ノアートのすぐ背後で、小柄な少女が「むむむ」と難しい表情を浮かべている。
手にしているのはミスト計測器カウンター。フリル付きの支援班制服に身を包んだ、年若い少女である。鈴付きのリボンでまとめたツインの髪型は、彼女のトレードマークだ。
彼女の名はサニィ・エッセン。まだ年端もいかないお子様のような外見の少女だが、彼女も立派なGEARS隊員である。オペレーション・ミストブレイク発令以来、後方支援班員として、ノアートらの様々なサポートを行ってきているのだった。
 現在行っている作戦区域のミスト濃度の計測も、サポート業務のひとつである。
「この島のミスト濃度、軽く王都の五十倍はありますよ。こんなレベルの高濃度ミストに長年晒されていれば、環境がおかしくなっちゃうのもわかる気がしますね」
「おかしくなっちゃう、ねえ」
極彩色の荒野を見回しながら、シエロが眉をひそめた。
深いミストのせいで遠方まで見渡すことはできない。しかし想像するに、島じゅうがこんな状態なのだろう。
「まるでこの世の景色とは思えねえな。ミストってのは、ここまで自然を変えちまうもんなのか」
 シエロの感想に、グランドーも「ふむ」と眉間に皺を寄せている。
「草や木のひとつも生えてねえんだ。人間どころか、生き物が暮らせるような環境じゃねえ」
「まるで、死の国……」
 そう呟いたトルナに、「そうですねー」と眠たげに相づちを打つ者がいた。
「さすがにこんな場所じゃ、おちおちお昼寝もできませんねー……。いやでも、いっそ永眠覚悟なら話は別でしょうかー……」
「アウラ先輩、命と睡眠時間の確保、どっちが大事なんです?」
 サニィに突っこまれているのは、同じく支援班員のアウラだ。
常日頃から睡眠欲に忠実な彼女は、こんな場所でも愛用の枕を手放さない。ある意味、第七小隊の誰よりも図太い神経の持ち主だと言える。
 ノアートたちが「やれやれ」と肩をすくめる中、もうひとりの支援班員、エフェメラだけが、表情を険しくしていた。
眼鏡の奥の切れ長の瞳が、毒々しい荒野に向けられている。
「しかし……近い将来、場合によっては、こういう光景も珍しいものではなくなるのかもしれませんね」
「え? どういう意味っすか、エフェメラ姉さん」
 シエロが首を傾げると、エフェメラがわざとらしく「はあ」と深いため息をついた。
「そんなこともわからないんですか? まったく、あなたの血の巡りの悪さは相変わらずですね。脳みそはどこに置き忘れてきたんですか?」
 蔑みの視線を向けられたシエロは、いつものように「ひどいっす」と涙目になってしまう。
 しかし今回に限っては、首を傾げていたのはトルナも同様だった。
「私も、よくわからない」
「ああ、申し訳ありません、トルナお姉さま!」エフェメラの表情がくるりと変わる。「この私が、言葉足らずだったばかりに!」
 トルナにすがりつくようにして頭を下げるエフェメラの姿に、シエロは「この待遇の差よ!」と頭を抱えていた。
まあ、概ねいつものことだ。ノアートは、「気の毒に」とシエロの肩を叩いてやることにする。
 エフェメラはそんなシエロを華麗にスルーし、トルナに「つまりですね」と説明をはじめていた。
「この極彩色の荒野は、島のいずこからか発生している高濃度ミストによって形成されたものです。そしてその高濃度ミストですが……成分自体は、王都周辺のミストとさほど違いはありませんでした。あくまで、他の地域に比べて濃度が高いというだけです」
「だから?」トルナが尋ねる。
「要するに、この島で起こった環境の変化は、今後他の場所でも十分に起こりうるということです。大気中のミスト濃度が高まれば、それは容易に顕在化するでしょう」
「ええと、それってー……」アウラがエフェメラの言葉を引き継ぐ。「もしも、このまま私たちがミストを止めることができなかったら、いずれ王都もこの島みたいになっちゃうってことですかねー……?」
 アウラはいつもの眠たげな口調で、目の覚めるようなことを言い放った。
第七小隊一同は、思わず押し黙ってしまう。
 みな、同じことを考えているのだろう。もしも、オペレーション・ミストブレイクが成功しなかったら。世界にミストが蔓延し、王都がこの島のような環境になってしまったとしたら――。そう考えると、責任は重大だ。数万の人々が暮らす王都を、死の世界に変えるわけにはいかない。
 ノアートらが不穏な想像に陥っていたそのとき、空気をぶち壊す声が響いた。
『間違いない! どうやらここが始まりの場所――グラウンド・ゼロみたいだね!』
 妙に明るい声が、各々が腰につけた通信機から響いてくる。通信機の画面に表示されているのは、片眼鏡をかけた痩身の男性の映像だった。
 フリエレン・ド・アレヴィ少佐。
ミスト技術研究所――ミスト技研からGEARSに出向している変人研究者である。
『この場所の緯度に経度、それから気温に湿度にミスト濃度、すべての数字が示している! ここが⟨星脈⟩の終着点だ! 七十年前の⟨煉獄の日⟩、ミストはこの場所から世界中に広がったんだよ! ……これはもう、すごい感動だよねえ! キミたちは今、世界の歴史を変えた地に足を踏み入れているんだよ!』
 フリエレンの空気の読めない言動は、今に始まったことではない。ノアートはこれまでの任務を通じ、そのことをよく知っていた。この男が勝手に盛り上がっているときには、あえて放っておいた方がいいということも。
「要するに」興奮するフリエレンをなだめるように、グランドーが静かに口を開いた。「この島にミスト源があるってことだな」
『ザッツライト!』フリエレンが、満足げに親指を立ててみせる。『ポロ・ウパシでの予想は正しかった! やはり、この島こそがキミたちの旅の終着点だ! いやあ、本当にお疲れ様!』
「まだ終わってねえよ」
 グランドーが、ため息交じりに鼻を鳴らす。
 しかし、ノアートたちが幾ばくかの安堵を覚えていたのは事実だった。
 ミスト源を発見しさえすれば、ミストの謎を解き明かすことができる。そうすれば、ミストに苦しむ人々を救うことができるかもしれない――。それが、ノアートたちGEARS隊員の悲願だった。長い戦いの日々が、ようやく終わろうとしているのである。
 ふとサニィが、「あ」と声を上げた。
「どうやら、他の隊の皆さんもご到着のようですよ」
 島の海岸には、他の小隊の隊員たちを乗せたギア・シップが次々と到着していた。錨を降ろし、足早に上陸する。彼らも第七小隊同様、ポロ・ウパシから直接この地にやってきた者たちだった。
 フリエレンが言うように、オペレーション・ミストブレイクは最終局面を迎えている。残された任務は、この地におけるミスト源の探索のみ。その最後の苦難を万全の状態で乗り切るため、GEARSはその戦力のほとんどをこの地に投入しているというわけである。
 グランドーが「ふむ」頷く。
歩嶽フガク討伐戦から引き続きの全隊投入か。他の隊との共闘も慣れたもんだぜ」
「まーた特選部隊とかいって、おれたちだけ除け者なんてのは嫌っすよ」
 シエロの苦言に、グランドーが「安心しろ」と告げる。
「それぞれの隊で手分けをする形で、ミスト源を捜索することになるそうだ」
「なるほど、それならあんまり今までと変わらないんすね」
「別に勝ち負けがあるわけじゃねえが……せっかくなら、他の隊には負けたくねえところだな」
 グランドーの言葉に、シエロが「そうっすね」と頷く。「これで最後の任務なら、自分たちの手で見つけたいもんです」
「最後、か」
 ノアートはそう呟きながら、次々とやってくるギア・シップに目を向ける。
 この地にやってきた隊員たちの中には、ノアートの顔見知りの姿も何人かあった。これまでの任務の中で、ノアートらと共闘した者もいれば、対立した者もいる。
 思えば、あっという間だったな――と、ノアートは思う。
「しかし、なんだかなあ」
 海岸に拠点設営を始める他の隊の隊員たちを見ながら、シエロはどこか寂しげに呟いた。
「こうして集まってみると、GEARS隊員の数も、だいぶ減っちまったってのがわかるよな」
「言われてみれば……そうですね」サニィが頷く。「オペレーション・ミストブレイクが始まったときなんか、広場にすごい人数が集まっていましたもんね。もう、何百人って単位で」
「まあ、すべての小隊がここに集まっているわけではありませんから」
 エフェメラが応える。
「第一小隊は王都防衛のためにリースラントに残っていますし、第四小隊は別任務のために先行して島の調査に入ったと聞いています。現在この場所に集合しているのは、二、三、五、六、七の五小隊のみです」
「それを差し引いても、やっぱり少ないですよ」サニィがため息交じりに続ける。「小隊が五つもあれば、全部で百人近くいても良さそうなのに。ここには今、その半分もいないですよ」
「やっぱり、それだけ厳しい戦いが多かったってことなのかな」
 ノアートの言葉を、アウラが「ですねえ」と首肯する。
「むしろ、ひとりの欠員も出ずにここまで来られた第七小隊の方が、奇跡みたいなものなのではないかとー……」
「皮肉なもんだな。クズナナだけが無事ってのは」
 拠点設営の準備を進めつつ、グランドーが鼻を鳴らす。
 彼の言う通り、第七小隊は、「経歴に難あり」の厄介者ばかりが集められた集団だった。
 かつて独断専行により部下を失った過去があるグランドー。他者とのコミュニケーションを完全に拒絶していたトルナ。仲間を失ったトラウマから、首領級に対し強いトラウマを持っていたシエロ。支援班員たちですら、それぞれ問題児ばかりだった。
 ノアートにしても、ほぼ訓練ゼロのままいきなりミストギアを握らされたド素人だったのである。
 このメンツで誰ひとり死なずに来られたのは、やはりすごいことなのかもしれない――ノアートは今更ながら、その幸運を噛みしめる。
「いや、マジに大変な旅だったよな」
 シエロがしみじみと呟く。
「王都を遠く離れて、砂漠やら雪原やら……。見たこともないエネミー相手に、何度も死にかけたりしてなあ」
「シエロさんの『ヘビィ』は、ホントもう聞き飽きましたねえ。毎日毎日、耳にタコができるくらい弱音ばっかり吐いて!」
 軽口を叩くサニィに、シエロは「悪かったね」と苦笑いで応える。
「辛いこともたくさんあったけどさ。旅もいよいよここで終わりとなると、なんだか寂しい気もするんだよな。上手く言えねえんだけど……なんか、もったいない気分っつーかさ。なあ、ノアートもそう思うだろ?」
 シエロが言いたいことも、なんとなくわかる気がする。
 リースラント州から始まった長い冒険は、ただ辛いだけのものではなかった。仲間たちと共にそれに立ち向かったことで、かけがえのないものを得ることができた――ノアートは、素直にそう感じていたのである。
「そう思えるんなら、てめえらも強くなったってことだぜ」
 グランドーはいつものように、ノアートの背中をどんと力強く叩く。ひりつくような背中の痛みは、ノアートにとってはもう慣れたものだった。もはや、愛着すら覚えてしまうほどに。
 グランドーが続ける。
「どんな強えぇエネミーに対しても、理不尽な状況に対しても、てめえらは決して諦めなかった。グイーリンでもナハルでも、ポロ・ウパシでも……いつもギリギリまであがき続けた。だからこそ、ここまで来られたんだ。てめえらは強くなった。この旅で磨き上げてきた己の強さに、誇りをもっていいと思うぜ」
「え、どうしたんすか。大尉がおれたちを褒めるなんて、珍しいこともあるもんすね」
 グランドーの言葉がよほど意外だったのだろう。シエロは、鳩が豆鉄砲を食ったように、きょとんとした表情を浮かべている。
「ああ、こりゃ、もしかしてアレっすか? ついにおれら、あの『鬼』のグランドーから、免許皆伝もらっちゃったって感じっすか?」
「けっ、調子に乗るんじゃねえ」グランドーが顔をしかめる。「最初に比べりゃあ、少しはマシになったってだけの話だ。てめえらはまだまだヒヨッコだよ」
 グランドーは吐き捨てるようにそう呟き、さっさと拠点の設営作業に戻ってしまった。船からコンテナを下ろし、中の資材を海岸に並べはじめる。
 ありがたい評価だ――と、ノアートは思う。
 荒っぽい言動とは裏腹に、グランドーの背中からはこちらに対する強い信頼感を感じる。きっと彼は言葉に出さないまでも、シエロやノアートを一人前のGEARS隊員だと認めてくれているのだろう。
 グランドーの背中に、ノアートは心の中で頭を下げた。
 日々の訓練でも戦闘においても、彼に助けられていた部分は非常に大きい。グランドーがいなければ、自分たちがここまで戦い抜くことは不可能だっただろう。
 マクシミリアン・グランドーという男は、間違いなく第七小隊の柱だったのだ。
「おら、てめえらも仕事しろ。隊長にばっか働かせてんじゃねえよ」
 グランドーの指示のもと、ノアートは拠点の設営作業を続ける。これまでの任務の中で、もう何度となく行ってきた作業だ。
 最初の頃こそ「資材が重い」だの「フィルター設置がキツイ」と文句ばかり言っていたシエロも、今はもう顔色ひとつ変えずに黙々と作業をこなしていた。
こういう地味な部分でも、自分たちは着実に成長しているのだろう。そう思うと、感慨深いものがある。
 しばらく設営作業をしていると、黙っていたトルナが唐突に口を開いた。
「私は……みんなと一緒にここまで来られて、良かったと思ってる」
 トルナの碧い瞳は、まっすぐにノアートに向けられていた。
 以前よりも柔らかくなったその表情には、美貌だけではなく、どこか少女らしい可憐さをも感じる。他人を寄せ付けなかった頃とは明らかに違う、優しい表情だ。
 この旅を通じて一番変わったのは、自分でもシエロでもなく、彼女なのかもしれない――ノアートはそんな風に思う。
「トルナには感謝してるよ。何度ピンチを助けられたことか」
 礼を告げたノアートに、トルナはゆっくり首を振る。
「感謝するのは、私の方。みんなのおかげで……私は、大事なことに気づけたから」
「大事なこと?」
「誰かと一緒にいて楽しいとか、誰かがいなくなって悲しいとか。そういう気持ち。みんなにとっては、当たり前のものかもしれないけれど」
 トルナは目を伏せ、静かな口調で続ける。
「私は第七小隊ここではじめて、人間になれたんだと思う」
 トルナが己の胸に、そっと手を置いた。
 その手の平の下、彼女の心臓部位には、特殊なミストコアが埋めこまれていると聞いている。そのミストコアこそが、彼女に人ならざる異能を与えているのだ、と。
 首領級すらも圧倒する膂力とスピード。そして自身の負ったあらゆる傷を瞬時に修復する、瞬間治癒能力。
 それらの力は、彼女をGEARSのエース・オブ・エースたらしめ、同時に他者を遠ざけてしまうものだった。彼女は近しい仲間たちからも、不気味な存在として忌避されていたのである。
 たとえ身体は傷つかずとも、心は別だ。幼い頃の記憶を失っている彼女は、GEARSの他に世界を知らない。その中でずっと腫れ物扱いされてきた彼女が、どれだけ辛い思いをしてきたのか。それは想像に難くない。
 ――私は、『化け物』だから。
 彼女はそういって、決して他者に対して心を開こうとはしなかった。ただ周囲の望む「化け物」として、剣を振るうだけ。彼女はエネミーを殺し続ける傍ら、己の心も殺し続けてきたのだろう。
 それが孤高のエース・オブ・エースの真相だったのだ。
 だが、今のトルナは違う。
「あのとき、決めて良かった。『ひとを信じる』って」
 ノアートの脳裏に浮かぶのは、とある洞窟の中でトルナと共に遭難したときの出来事だ。
 救出に来た第七小隊のメンバーに、彼女は告げた。
 ――誰かを信じることのできない私は、やっぱり人間じゃないのかもしれない。それでも、信じたい……とは思う。
 そのとき、ノアートは知った。トルナード・ヴェイルは、周囲の言うような「化け物」ではない。人との繋がりを夢見ていた、ごく普通の女の子なのだということを。
「私が変わることができたのは、あなたのおかげ……なんだと思う」
 突然トルナに微笑みかけられ、ノアートは「え」と面食らう。彼女がこんなに素敵な笑顔で笑うなんて、夢にも思わなかったからだ。
「あなたは初めて会ったときから、得体の知れない私のことを、ずっと気にかけてくれていた。あの洞窟でも同じ……。あのとき一緒にいてくれたのがあなたじゃなかったら、私は今でも、ひとりぼっちだったと思う」
「大したことはしてないよ」ノアートは苦笑する。「トルナが実はいいヤツだってことは、少し付き合えば誰でもすぐにわかることだから。きっかけさえあれば、誰とでも仲良くなれた……のかも」
「それでも……そのきっかけを作ってくれたのは、あなた」
 トルナがノアートの手を取り、ぎゅっと握る。しっかりと血の通った、暖かい手だ。こんな彼女を「化け物』呼ばわりする人間がいただなんて、今ではもう信じられない。
「これでもう最後だから……あなたにお礼を言っておきたい。私を人間にしてくれて、ありがとう、って――」
 トルナが言い終わる前に、ノアートは「そんなこと言わないで」と首を振った。
 トルナが「?」と首を傾げる。
「最後じゃなくて、これからだよ。トルナにはこれからもっと、楽しい思い出が待ってるんだからさ」
 脇から「そうですよ!」と、元気な声が聞こえてくる。口を挟んだのは、支援班のサニィだ。
「長かったミストとの戦いも、これで終わるんです! 世界からミストが消えたら、パーッと遊べちゃいますよ!」
「そうですねえ……。休暇、楽しみですねえ」アウラがにへら、と頬を緩める。「もう私、お休みを頂いたら、ずうっと寝てられますねー……。気合い入れて、一日三十時間くらいは寝てやる勢いでー」
「アウラちゃん、それもう時空が歪んでるからね」
 シエロが苦笑いを浮かべる脇で、エフェメラは恍惚の笑みを浮かべていた。
「お姉さま! 思い出づくりの相手なら、是非このエフェメラルダ・グラン・ドゥイユをご指名ください! 生涯決して忘れることのできぬ、激しくもスイートな一夜をご提供いたします! ええもう、各種アイテムは技研から取り寄せますので――」
「ちょっとエフェメラ先輩! トルナさんがドン引いてるんで、ヘンタイな妄想はその辺にしてください!」
 サニィが、コホンと咳払いをする。
「個人的な遊びも結構ですけど、せっかくだからまずは、みんなで打ち上げをしませんか!? 実は私、つねづね温めてきた計画があるんです!」
 ノアートが「計画って?」と尋ねると、サニィが「待ってました!」とばかりに小さな胸を張った。
「王都に帰ったら、私の実家の食堂で、食べ放題パーティをやりましょう! 世界各地で磨いてきた私の料理の腕を、ここぞとばかりに発揮しちゃいますよ!」
「おお! いいね、それ!」シエロが目を輝かせた。「サニィちゃんの料理、毎度旨かったもんな! 今回の旅の締めにはもってこいだぜ!」
「当然、酒は出るんだろうな」
 グランドーも話に乗ってくる。どうやら彼も、打ち上げには賛成のようだ。
「もちろんです!」サニィが満足そうに頷いた。「食べたいものがあれば皆さん、じゃんじゃんリクエストしてくださいね!」
 サニィの提案をきっかけに、第七小隊の面々は「グイーリンの茶碗蒸しを!」だの「ナハルのカレーは外せない!」だの、食べ物トークで盛り上がってしまう。
 拠点の設営作業は当然、一時中断となる。
ノアート自身、呑気なものだとは思ったものの、しかし、ここであえて皆を急かす気にもならなかった。
 そもそも第七小隊とは、こういう部隊なのだ。オペレーション・ミストブレイクが始まったあの日から、この和気藹々とした雰囲気は変わらない。ノアートにとってそれは、嫌いなものではなかった。
 ふと、トルナと目が合う。彼女も同じ気持ちなのだろう。くすり、と頬を緩めた。
「みんなで一緒に、王都に帰ろう。必ず」

GEARS総隊長、ホーライが厳かに口を開いた。
「聞け、皆の者」
 各隊とも拠点設営作業が終了し、ホーライの前に整列している。ノアートたち第七小隊も同様だ。談笑の空気から一変、みな一様に真剣な表情を浮かべていた。
 ミスト源の探索。最後の任務が、ついに始まろうとしているのである。
「オペレーション・ミストブレイクは、とうとう最終局面を迎えた。長年世界を蝕んできたミストの謎が、ついに紐解かれる日がやってきたのだ」
 総隊長ホーライ・ラディオは、かなりの高齢である。なにしろ、七十年前の<煉獄の日>の生き証人なのだ。この場にいる誰よりも長く、ミストと戦い続けた男であるともいる。
 彼にとって、今回の任務が感慨深いものであるのは間違いない。七十年越しの宿敵と、ようやく決着を付けることができるのだから。
 ホーライが、手にした杖を高く掲げる。
「勇敢なるGEARS隊員たちよ、最後の調査を――」
 と、そのときだった。
 隊員たちの中から、ざわざわと不穏な声が響き始める。
「おい、なんだあれ……!?」
 いったい何が起こったのか。ノアートは、隣に並ぶシエロと顔を見合わせた。
 見ればグランドーが、険しい表情を浮かべている。
「見ろ、あの岩の上だ」
 グランドーの視線の先、少し離れたところに、高さ十メートルほどの巨岩があった。周囲と同様、黄色と橙が混じり合った、奇妙な色の岩である。 その岩の上に、動くものがあった。
 よく見ればそれは、人影だ。赤いローブをまとった人間が、こちらを見下ろしているのである。
「おい、あいつは……!?」シエロが息を呑む。
 こちらを見下ろしているのは、瞳孔の開ききった狂気の瞳だった。ノアートはこれまでの旅の中で、ああいう目をした連中と何度か顔を合わせたことがある。
「例の教団だ。たしか、『霧の翼』とかいう」
「くれぐれも気をつけろよ」グランドーが、眉根を寄せた。「連中がポロ・ウパシの戦いで、陰から糸を引いてやがったのは間違いねえんだ。なにを企んでるのかは知らねえが、俺たちの味方じゃねえってことだけは確定だろう」  ホーライもまた岩の上を見上げ、「むう」と顔をしかめていた。
「そこの貴様! 何をしに来た!」
「……を」
『霧の翼』教団員と思われる人物は、その赤いフードの下で何事かを口走った。口の中でぼそぼそと呟いているだけで、何を喋っているのかはわからない。
 訝しむGEARSたちを見下ろしながら、教団員はなおも続ける。
「聖地を……者たちに……を……」
 気づけば教団員は、巨岩の上から姿を消していた。真下に飛び降りたのだ。あんな高いところから飛び降りるなんて――GEARS隊員たちは、一瞬息を呑む。
 しかし、そんな心配は杞憂だった。教団員は軽々と受け身を取り、すっくと立ち上がったのである。まるで何事もなかったかのように、まっすぐにGEARS隊員たちの方へと近づいてくる。
 あの赤ローブは、普通じゃない。ノアートはごくりと息を呑んだ。
「ちょっとあなた、なんなの」
 ひとりの女性隊員が武器を構え、教団員へと近づいた。第二小隊のエンブレムを胸元につけた、年若い少女だ。
 教団員は見るからに丸腰。対する彼女は重装型ミストギアのフル装備だ。敵の捕縛など、赤子の手を捻るよりも容易いだろう――。このとき、誰もがそう思ったに違いない。
 しかし次の瞬間、悲劇は起こった。
「聖地を冒さんとする者たちに、峻厳なる死を……!」
 教団員が叫ぶや否や、鮮血が飛び散った。
その血は教団員のものではなく、女性隊員のものだ。彼女の胸から、壊れた噴水のように真っ赤な血が噴き出しているのである。
「え……?」
 事態を認識した者は、皆すべからく呆気に取られてしまっていた。
 女性隊員の鎧――重装型ミストギアを貫いているのは、なんと教団員の腕だった。赤いローブの袖口から突き出された手刀が、鉄壁のミストギアを貫通しているのである。
 女性隊員は大量の血を口から吹き出し、びくびくと痙攣している様子が見て取れた。教団員が腕を抜き取ると、彼女の身体はドサリと地面に落下する。
極彩色の大地が、赤黒く染まっていく。
 いったい何が起こったのか。ノアートは目を疑った。驚愕の事態に脳の処理が追いつかない。素手の人間がミストギアを破壊するなど、ありえることなのだろうか。
 誰ひとり、声を出すことすら忘れているようだった。不気味な静寂が周囲を包んでいる。
「冒涜者たちに、裁きを!」
 教団員が天を仰いだ。フードが外れ、その頭部が露わになる。
それを目の当たりにした者たちは、一様に息を呑んだ。
 皮膚の一部が、結晶で覆われている。
 教団員の頭部は、その半分が成人男性のもの。もの半分が人外のものだった。左顔面から後頭部に至るまで、赤く輝く結晶体に覆われていたのである。
 その場にいた誰もが、ミストエネミーを連想しただろう。ミストの浸食度が高くなったエネミーは、その身体が結晶体で覆われるようになる。
 あの教団員の頭部には、それと同じ現象が起きているのだった。
「あいつ……人間なのか……!?」
 戦慄するGEARS隊員たちを尻目に、教団員はさらなる凶行を続ける。目にも留まらぬ速度で隊員に接近し、その腹部を手刀で貫いたのだ。
 一人、二人――倒された隊員たちには、身を守る暇すらなかった。教団員の身のこなしは、明らかに人間のものではない。
「う、うわあああああっ!」
 三人目が倒されたところで、ようやく悲鳴が上がった。
 反応が遅れたのも無理はない。目の前で起きているのが、それだけ異様な事態だということである。
 あの教団員は何者なのか。
 いったいなぜ、自分たちは襲われているのか。
 そもそも、あれは本当に人間なのか――。
 数々の疑問が、隊員たちの脳裏をよぎる。しかし考えたところで答えが出るわけでもない。GEARSは今、混乱の極地に至っていた。
「な、なんなんだよ……! いったいなんだってんだよ!」
 シエロが声を震わせる。
 彼と同様、多くのGEARS隊員たちがその場に縫い止められたかのように動けなくなってしまっているようだった。たとえ日常的に訓練をしてきた者であっても、理解不能の状況を前にして、とっさの対応ができる者はそう多くはない。
 動けるのは、ある種、精神のタガが外れた者――常日頃から、命の奪い合いを当然のものとして受け止めている者たちだけだった。
「立ちはだかる敵なら倒せばいい。迷うことはありません」
 バリトンの利いた落ち着いた声が、周囲に響き渡った。
 声の主は、不吉な印象の黒衣に身を包んだ男。第三小隊隊長、ギュスターヴ・グレイシャーである。
 彼が手にしているのは、身の丈ほどはある巨大な斧型ミストギア――彼の代名詞でもある〝処刑斧〟だった。
 その斧の禍々しさに、脅威を覚えたのだろう。教団員は足を止め、ギュスターヴに向き直る。
「冒涜者を、神は決して許さない……!」
 教団員は地を蹴り、まっすぐにギュスターヴの下へと向かっていく。他の隊員同様、貫手で胴体を破壊するつもりなのだろう。
 しかしギュスターヴは、己に向かってくる敵に対して一切のひるみをみせなかった。身体の軸をいっさいぶらすことなく、無慈悲に〝処刑斧〟を振り下ろす。

 それだけで勝負は決した。斧の一撃を受けた教団員の頭蓋は、柘榴のようにはじけ飛んだのである。砕け散った頭部の結晶体が、キラキラと光を反射しながら宙を舞う。
「あいにくですね。我々は最初から、神に許しを請うつもりなどありません。むしろ――」
 倒れた教団員を見下ろし、ギュスターヴが眼鏡の蔓を押し上げる。
「世界をこんな風にねじ曲げたのが神なのだとしたら、この手で叩き潰してやりたい。そう思っているくらいですから」
 頭部を失った襲撃者は、もはやぴくりとも動かない。絶命しているのは明らかだった。
 複雑な気分だ――と、ノアートは思う。
脅威が去り、内心安堵したのは言うまでもない。しかしその安堵は、襲撃者の命を奪うことでもたらされたものなのだ。
 自分たちGEARSが戦ってきたのは、ヴァルクス王国の人々のためだった。人間の命を守るために、怪物ミストエネミーと戦ってきたのだ。人間を守るために、別の人間と戦う――それは、ノアートにとって、初めての経験だったのである。
 他の隊員たちも、ノアートと同様の思いに囚われているのだろう。皆一様に神妙な様子で、襲撃者の遺体に目を落としている。
 平常通りの表情をしているのは、ギュスターヴだけだった。彼は血に塗れた〝処刑斧〟を肩に担ぎ直し、吐き捨てた。
「皆さん、覚悟が足りないのでは?」
「覚悟?」シエロが、ノアートの脇で眉をひそめる。
「そもそもポロ・ウパシの一件で、『霧の翼』が我々に対し攻撃を仕掛けてくるだろうことは予想できていたはずです。殺し合いが起こるのは必然ですよ」
 殺し合い。その生々しい単語に、隊員たちがごくりと息を呑む。
「もはや敵を殺すことに躊躇している段階ではありません。そんなことをしていては、次に殺されるのは自分たちです。それでは守るべきものを守ることすら、叶わなくなる」
 ギュスターヴ・グレイシャーには、厳格な境界がある。少なくとも、ノアートはそう思っている。
彼は、己の守るべきもの――彼自身の信念や、部隊の仲間たち――と、それ以外とを徹底的に区別しているのだ。だからこそ彼は、守るべきものを守るために、それ以外を容赦なく切り捨てることができる。
第七小隊はかつて、彼のラジカルな考え方と対立したこともある。しかしこの状況においては、ギュスターヴの言うことももっともなのだ。
『霧の翼』はもはや、明確にGEARSの敵であることには疑いない。現に今だって、数名の隊員たちが命を落としているのである。
 ――絶対に、生きて帰ってきて。
 王都で帰りを待つ者のことを思えば、こんなところで死ぬわけにはいかない。相手が人間だろうと、戦って生き抜くしかないのである。
 ノアートが、ミストギアの柄をぐっと握りしめる。
そのときだ。いずこからか、パチパチと手を叩く音が聞こえてきた。
「――存外にやるものだな、GEARSというのも」