最終章 第6話

シエロは「え?」と目を疑った。
 あれだけ深かったトルナの刀傷が、いつの間にか、まるで何事もなかったかのように修復されていたのである。異常なスピードである。もはや瞬間治癒どころか、傷の消失といっても過言ではないレベルだ。
 いくらトルナの治癒能力が常人離れしているとはいっても、ここまで早いというのはおかしい。いったいトルナに何が起きたというのだろうか。
 しかし、驚くべきはそれだけではなかった。
「ト、トルナさん……!?」シエロは息を呑んだ。
 立ち上がったトルナの姿は、異形と化していたのである。
 その両手足は、血のように輝く結晶体に覆われている。美しかったシルバーブロンドは、燃えるような赤い色に変わっていた。彼女の背中に広がっているのは、光の翼だろうか。
 いくら体内にミストコアを有しているとはいっても、あの変化は異常である。今の彼女と比べれば、聖戦士たちの方がよっぽどまともな人間に見えるくらいだ。
「ねえ、ちょっと!? どうしちまったんすか!?」
 シエロが叫んでも、トルナは答えない。まるで、こちらの声などなにも聞こえていないかのようだ。
 立ち上がったトルナを見て、アルトゥーラが眉をひそめる。
「その治癒速度……その姿……ありえぬ。そなた、いったい何をした?」
 トルナは答える代わりに、アルトゥーラにゆっくりと近づいた。
 その目は今や、冷酷なまでに爛々と輝いている。まるで獲物を見つけた猛獣のような眼差しだった。
「化け物め!」
 アルトゥーラが『晴嵐』を振り上げ、トルナに斬りかかった。
 しかし、トルナはまるで動じない。
 彼女は小虫を捕らえるかのごとき所作で、『晴嵐』の切っ先を指先で制止させた。そのまま刀身を摘まみ上げ、軽く上方に弾き飛ばしてしまったのである。
 アルトゥーラには、なにが起こったのか理解できなかったのだろう。握っていた剣をいつの間にか弾き飛ばされ、驚きに目を見張っている。
「なんだと……!?」
 そんなアルトゥーラの腹部に、トルナは無遠慮に手刀を挿し入れた。
「う……ぐうっ……!?」
 顔をしかめるアルトゥーラとは対照的に、トルナの表情には一切の感情がこもってはいなかった。ただ能面のような冷たい表情で、目の前の少女の内臓を握りつぶしてしまった。
 アルトゥーラが「うがあああああああ!」と張り裂けるような叫びを上げる。
「い、いったい……そなたは……なんだ……!? ただの聖戦士では……〝熾天使〟では……ないのか……!?」
 アルトゥーラはそれだけ呟き、ごぽりと大量の血を吐いた。彼女は蹲り、そのまま動かなくなってしまう。
 トルナはぼそりと呟いた。
「足リナイ……」
 その冷たい声色に、シエロの背筋がぞくりと凍り付く。
 今のトルナは、自分たちの知るトルナではない。心も身体も、まるでよくない何かに乗っ取られてしまったかのようだった。
「ミンナ……殺シテヤル……!」
 トルナが赤ローブたちに目を向ける。
 シエロが「えっ?」と眉をひそめたそのときだった。すぐ背後から「あああああっ!?」と悲鳴が上がる。
 振り返ってみると、聖戦士のひとりが地面に倒れていた。屈強そうな大男だ。
 なにがあったのか、首と胴体が完全に離れている。
「え、な……?」
 すぐ脇には、トルナが佇んでいた。いったいいつの間にシエロの背後に移動していたのか。彼女の結晶体に覆われた右腕は、ぬらぬらと血の光沢に覆われていた。
 あの男を殺したのは、トルナの仕業なのだろうか。シエロが尋ねるのを躊躇しているうちに、トルナは地面を蹴っていた。
 それが殺戮の始まりだった。
 トルナは己の目に入る聖戦士たちを、片っ端から襲い始めたのである。
 素手で手足を引き千切り、胴体を引き裂き、そして頭を叩き潰す。異形と化したトルナを止められる者は誰もいなかった。ただなすすべもなく、蹂躙されていく。
 相手が男性だろうが女性だろうが、大人だろうが子供だろうが区別はない。トルナはただ、血に飢えた獣のように敵の命を奪い続けている。
「あああああああ!?」「いぎいいいいい!」「おのれ、おのれ、この悪魔めえええっ……!」
 そこかしこから、聖戦士たちの悲鳴が上がっていた。
 まさに虐殺というのが相応しい光景である。辺りに漂う血と臓物の生々しい匂いに、思わずシエロは吐き気を覚えてしまう。
 ミストエネミーですら、ここまでの惨状を生み出すことはないだろう。今のトルナは人間でもエネミーでもない。ましてや聖戦士でもない。ただ純粋な破壊の化身――シエロには、そんな風に思えてならなかったのである。
「わけがわかんねえ……。いったい、トルナさんに何が起きてるっつーんだよ」
「さあな」
 答えたのは、グランドーだった。
 グランドーは倒れたノアートを抱き起し、携帯用の止血剤で応急処置を試みていた。ノアートの意識はないが、かろうじて息はまだあるようだ。
 シエロは、ほっと安堵する。
「トルナがどうしてああなっちまったのか、まるでわからねえ」グランドーが続ける。「だが、とにかくやべえ空気だけは理解できる。もしかするとトルナの中には、とんでもねえモンが眠ってたのかもしれねえな」
 稲妻のような速度で戦場を駆けるトルナを、誰も止めることはできなかった。ただ呆然と、その残虐な所業を見守ることしかできなかったのである。
 そんな中でただひとりだけが、手を叩いて「あっはっは!」と高笑いを浮かべている。
「素晴らしい! これこそ聖戦士の行き着く先……! 至高のミストヒューマン! ミストコアの潜在能力を、完全に引き出しきっている!」
 高笑いの主は、ベリヒトだった。周囲から向けられる視線などまるで気にする様子もなく、金属製の指先をカチンカチンと叩き鳴らしている。
「あの姿こそ、〝熾天使〟を超えた〝死天使〟……! 私が長年求めていたのは、まさにあれですよォォォォ!」
「そなたは……なにを言っている?」
 ベリヒトのすぐ背後で、アルトゥーラがよろよろと立ち上がった。
 彼女も、トルナ同様の治癒能力を有しているのだろう。腹の傷はほとんど塞がり、血も止まっている。
「〝死天使〟とはなんだ。ベリヒトよ、そなたはいったい何を知っている」
「ああ、我が教主よ! あなたには感謝をしてもしきれません!」
「感謝……だと?」
「ええ、ええ! なにせ〝死天使〟が覚醒に至ったのは、あなたが彼女からあの玩具――ミストギアを奪ったからに他ならないのですからねェ!」
「貴様は、何を言っている……!?」
「ミストギアという頸木くびきから解き放たれた彼女は、霧の力を無限に吸収、行使することが可能となった! ほら、御覧なさい教主様……! 今のあの女は、まさに死を振りまく天使そのものでしょう!?」
「ちゃんと説明しろ、ベリヒト! あの女はなんなのだ!?」
 ベリヒトは「ああ――」と口を開きかけ、すぐに首を振った。
「説明をしている時間が惜しい。今はすぐにでも、アレを起動しなければ」
「なんだと?」
 眉をひそめるアルトゥーラを無視し、ベリヒトは踵を返した。そのまま脇目も振らず、岩山の方へと歩き出してしまう。
 変なやりとりだ――と、シエロは思う。
 あのベリヒトという男は、アルトゥーラという少女を教主として崇めていたはずではなかったのか。それが、変貌したトルナの姿を見て様子が一変してしまった。突然、教主など歯牙にもかけないような横柄な態度に変わったのである。
 彼らの様子を見る限り、『霧の翼」も一枚岩ではないのかもしれない。ベリヒトは、いったい何を知っているというのだろうか――。
『しっかりしてください! シエロさん!』
 ぼんやりとベリヒトの背中を見つめていたシエロの意識は、腰の通信機から響く声で現実に引き戻されていた。
「え、サニィちゃん?」
『ぼーっとしてる場合じゃないですよ! トルナさんが、ますます大変なことになっちゃってます!』
 サニィに言われ、シエロはトルナの方に視線を戻した。
 思わず、「あっ!」と声を上げてしまう。なんとトルナは聖戦士だけでは飽き足らず、今度はGEARS隊員へと襲いかかっていたのである。
「お、お願い、ヴェイル中尉……! こっちに来ないで!」
「くそっ……! ついにイカれやがったか、この化け物め!」
 周囲の隊員たちは、悲鳴を上げながらトルナから逃げ惑っていた。
 今のトルナに対しては、ミストギアなどなんの役にも立たない代物である。いかに鉄壁のギアで身を守ろうとも、やすやすと素手で破壊されてしまう。逆にこちらから攻撃を仕掛けたところで、身のこなしがあまりに速すぎて、捉えることすらできない。
 アリがどんなに重武装をしたところで、決してゾウには敵わない――。シエロの目の前で繰り広げられているのは、まさしくそんな光景だった。
 技術や装備でどうにかなる話ではない。今のトルナとシエロたちの間には、生物としての確固たる格の差が存在していたのである。
 ヘビィってレベルじゃねえな――シエロは舌打ちする。
『シ、シエロさん! 気をつけて! トルナさんがそっちに向かってます!」
 サニィが甲高い声を上げた。
 見れば、トルナはすでに、シエロのすぐ目の前に立っていた。いったいいつの間に近づいていたのか。まるで気がつかなかった。あまりにも速すぎる。
「トルナさん、もうやめてください! おれたちのこと、ホントにわかんねえのかよ!」
 シエロが叫んでも、トルナに変化はなかった。その血走った目には、いぜん変わらぬ闇の炎が浮かんでいる。
 ダメか――とシエロは眉をひそめた。
 首を引きちぎられるのか、心臓をえぐり取られるのか。おそらくあと一秒も経たないうちに、自分は命を落とすことになるのだろう。
 こんなことならせめてもう一度、王都に帰っておきたかった――シエロがぐっと下唇をかみしめたそのときだった。
「……!?」
 不意に、横合いから真空の刃が飛来する。GEARSに伝統的に伝わる剣技“カマイタチ”だ。
 トルナは真空の刃を回避すべく、即座にバックステップでシエロから距離を取る。
 危ないところだった。いまのカマイタチが無ければ、確実にシエロは命を落としていたところだろう。
 いったい誰が自分を助けてくれたのか――。シエロが顔を上げると、そこには思いも寄らぬ人物の姿があった。
 威厳たっぷりの白髭に、皺だらけのいかめしい顔つき。それはシエロが長年苦手にしていた、祖父の顔だった。
「大事ないか、シエロ」
「ジ、ジジイ……!」
 GEARS総隊長ホーライは、シエロの無事を認めると、少しだけ目を細めてみせた。
 シエロにとっては目の上のタンコブとでもいうべき老人だ。しかし、シエロがこの祖父に助けられたのは、これが初めてのことではない。
「ありがとよ」
 シエロが呟くと、ホーライは「うむ」と頷いてみせた。
 淡泊なやりとりではあったが、今の自分たちにはこれでじゅうぶんなのだ。ここから先は、今を生き延びてからの話だ――とシエロは思う。
 ホーライはそのままシエロに背を向け、叫ぶ。
「総員、トルナード・ヴェイルの捕縛に当たれ! まずは、あやつを止めるのが先決じゃ! 『霧の翼』との戦いは、そのあとでいい!」
「ちょっと待ってくれよ! 総隊長じーさん!」
 声を上げたのは、ヘッドホン姿の少年――第五小隊隊長、ブリットだった。
「第五小隊は、ここまでの戦いで全員ボロボロになっちまってる。こんな状態でトルナの相手をするのは、さすがに無理ってもんだ」
「ならば、戦える者だけでよい。他の隊の状況は?」
 ホーライが周囲を見渡した。
 シエロが見る限り、どの小隊も似たり寄ったりである。隊員たちも彼らの手にしたギアも、手ひどいダメージを受けていた。聖戦士との戦いにより、消耗しきっているのだ。
「なんとか戦えているのは、第六小隊ぐらいのものか」
 トルナは現在、第六小隊隊長のネヴィスと交戦中だった。
 さすがは『龍槍』というべきか。異形化したトルナをなんとか押さえこんでいる。防戦一方とはいえ、トルナとまともにやりあえているのは今のところ彼だけであった。
「ぐっ……! やはり、強い……!」
 たったひとりでトルナの相手をするのは、さすがに荷が重いのだろう。ネヴィスの端正な表情は、苦痛に歪んでいるようだった。
「こっちはもってあと数分です……! 戦えない皆さんは、早く逃げてください!」
 彼の他に、真っ向からトルナと戦えるような隊員はそう多くない。せいぜいが隊長クラスくらいのものだろう。
 GEARS全滅の危機は、刻一刻と近づいてきているのだった。
 ホーライが、意を決した様子でギアを握りしめる。
「ならば、儂が出るしかないか」
「なに言ってんだよ、ジジイ!」シエロが憤りの声を上げる。「自分だってボロボロじゃねえか! まさか死ぬ気じゃねえだろうな!?」
「若人のため、死して道を切り開くことこそ老兵の務めよ。シエロよ、後のことは任せたぞ」
「おい、ふざけんなジジイ! そんなの――」
 シエロが激高しかけたところで、脇から口を挟む者があった。
「落ち着け、シエロ」
 グランドーである。彼はホーライに向き直り、毅然と告げる。
「総隊長殿、ここは俺に任せてくれ」
「やれるのか? 貴様もだいぶ深手を負っておるようじゃが」
「ああ。トルナは俺の部下だ。部下の不始末の責任は、隊長が取る。それが筋ってもんだろう」
 グランドーの真剣な表情には、強い覚悟がこめられているのを感じる。
 その覚悟はホーライにも伝わったのだろう。ホーライは一言、「頼む」とだけ告げた。
 グランドーは頷き返し、背を向けた。そのまま、トルナに向かって走る。
「こっちだ、トルナ!」
 トルナの赤く輝く瞳が、グランドーに向けられた。
   彼を最優先の獲物だと認識したのだろう。トルナはネヴィスに背を向け、真っ直ぐにグランドーへと向かっていく。
 グランドーは、にやりと笑みを浮かべる。
「そうだ。わかってるじゃねえか」
 すでにトルナは、グランドーの眼前に迫っていた。
 やはり、恐ろしいほどの駿足である。もちろん、恐ろしいのはスピードだけではない。膂力も持久力も、トルナの身体能力は、あらゆる点で通常の人間を大きく上回っている。それは明らかだ。
 果たしてグランドーには、勝算があるのだろうか――。見守るシエロの視線の先で、グランドーは悠然とトルナの前に立ちはだかっていた。
 シエロは「え?」と目を疑った。
 驚くべき事にグランドーは、拳の構えすら取っていないのだ。完全に棒立ちの姿勢で、トルナを待ち受けていたのである。
 正直、なにか考えがあるようには思えない。まさかグランドーの言う「責任を取る」というのは、ただ死ぬつもりなのではないのか。
 焦りのあまり、シエロは叫んでいた。
「に、逃げてください! 大尉!」
 しかしグランドーは、逃げるそぶりなどまるで見せなかった。
「誰が逃げるかよ……!」
 グランドーのどてっ腹には、トルナの手刀が突き刺さっていた。勢いのあまり、手刀は背中側に貫通してしまっている。
「た、大尉ぃぃぃっ!」
 思わずシエロは叫んでいた。誰がどう見ても致命傷なのは明らかだ。
 その証拠に、「ごふっ」と咳きこんだグランドーの口からは、大量の鮮血がこぼれ出てしまっている。
「これで……これでいい……!」
 声を震わせながらも、グランドーが唇の端をつり上げていた。その視線は、まっすぐにトルナへと向けられている。
「俺が逃げちまったら、こうやっててめえを受け止めてやれねえからな」
 グランドーは血にまみれた両腕で、己を貫いたトルナの手をしっかりと握りしめていた。さすがのトルナも、動きようがなくなってしまっている。
「いいか、トルナ……。てめえは、人間だ」
 グランドーの言葉に、トルナの眉がぴくりと動く。
「どんな力があろうと、どんな姿になろうと、てめえが俺の部下だってことには……変わりねえ……。てめえは第七小隊副隊長の、トルナード・ヴェイルなんだ」
「…………」
 トルナの背中の光翼が、ちかちかと明滅する。彼女の瞳にも、光が戻り始めていた。きっとトルナは今、こちら側に戻ってこようとしているのだ。
「力に呑まれんじゃねえぞ、トルナ。グイーリンでの戦いを思い出せ……! あんとき俺たちを『信じる』っつったてめえを、俺は……信じてるからな……!」
「わ……わた……しは――」
 トルナの目から、一筋の涙がこぼれる。
 もう少しで、彼女は自分を取り戻すことができるのかもしれない。手をこまねいて見ている場合ではないだろう。
 シエロも、「トルナさん!」と、彼女のもとに駆け寄った。
「トルナさんはエース・オブ・エースでしょ! その強さは、おれたちが一番よく知ってます! こんなところで負けるようなひとじゃない!」
「――みんなの、言う通りだよ、トルナ……!」
 気づけばトルナの肩を、血まみれの手がつかんでいた。

 ノアートだ。いつの間にか、意識を取り戻していたらしい。
 よほど、トルナのことが気がかりだったに違いない。生きているのが不思議なくらいのダメージを負っているはずなのに、トルナを見つめる視線は強い。
「約束……したじゃないか……! 一緒に、王都に帰るって……!」
「約束……。そう……そうだった……。私は、みんなと……!」
 グランドーの腹部を貫いていた腕は、まるで力が抜けてしまったかのように、するりと引き抜かれていた。
 トルナはそのまま、地面にすとんと尻餅をついてしまう。彼女にはもはや、周囲に襲い掛かる気配はなさそうだ。目に大粒の涙を浮かべ、グランドーを見上げている。
「ごめ……ごめんなさい……。私、なんてことを……!」
 口から溢れた血を拭いながら、グランドーがにいっと歯を見せる。
「ようやく、帰って来やがったか」
 そのときだった。突如、トルナの身体が淡い光を帯び始める。
 再び変化がはじまったのだ。
 背中の光翼は、ミストの中に溶けこむように消え始めた。燃え上がるように赤く染まっていた彼女の髪の色も、その熱を失ったかのように銀色に戻っている。
 彼女の両手両足を覆っていた赤い結晶にもひびが入り、ぱきんぱきんと砕け散っていった。結晶体の下から現れたのは、元通りの白く美しい手足だ。
「トルナさん、元に戻ったのか……!?」
 シエロはほっと息をつく。
 いったい彼女の身に何が起こっていたのか――。落ち着いてトルナに尋ねてみようとしたシエロだったが、そんな余裕はなかった。
『ノアートさん!』
 通信機ごしに、サニィの叫びが響き渡る。
 やはりノアートは、相当の無理をしていたのだろう。トルナが元に戻ったのを見届けると、突っ伏すようにその場に倒れてしまったのである。
「トルナもノアートも、ひとまず拠点に戻した方が良さそうだな。これじゃあ、任務を続けるのは無理そうだ」
 シエロは「そうっすね」と頷き、ノアートに肩を貸して立ち上がらせる。
 周囲を見渡せば、敵も味方もボロボロだった。二本の足でまともに地面に立っている者など、数えるほどしかいない。
 極彩色の荒野には、疲弊の空気が漂っていた。

 岩山の奥深く、教団本拠地の最下層に、その施設はあった。
 血に塗れた手術台に、人間の臓器の浮かぶ培養槽。部屋に充満しているのは、化学薬品と血臭の入り混じった、強烈な悪臭である。
 ここは、『洗礼の間』。
 ミスト源へと続く空洞の真上に作られた、巨大な空間である。
 ベリヒトにとってみれば、数々の信者の身体を聖戦士へと変えてきた実験場だ。この部屋に充満する死臭を肺に取りこんでいると、得も言われぬ恍惚な気分に浸れるのである。
 もっとも、今ベリヒトの脳内で快感物質を生み出している主な原因は、この部屋の空気ではなかった。GEARS隊員としてこの地に現れたあの脱走者――トルナード・ヴェイルという名の女の存在によるものが大きい。
「探し求めていた〝死天使〟は、もはやすぐ手の届くところにある……! 今日はこの地に降り立って以来の、最高にハッピーな日かもしれませんねェ!」
 ご機嫌な気分だ。ベリヒトは金属製の指をカチカチと打ち鳴らしながら、部屋の中央に開いた巨大な穴に近づいた。ミスト源へと繋がるダストホールである。
 穴の中では今日も『彼女たち』が唸り声を上げている。
「ウウウウウ、ウウウウウ……!」とすすり泣くように聞こえているのは、『彼女たち』が元気な証だ。ベリヒトは、勝手にそう思うことにしている。
「〝死天使〟さえ発見出来れば、あとはこの子たちを解き放つだけ……。究極の兵器の完成まで、あと一歩というところですねェ!」
 鼻歌を歌い始めようとしたそのとき、背後に気配を感じた。
「究極の兵器……とは、どういう意味だ?」
 現れたのは『霧の翼』の教主、アルトゥーラだった。どうやら彼女は、ベリヒトのあとを付いてここまでやってきたらしい。
 面倒くさい小娘だ――と思う。こんな楽しい気分のときに、水を差してくるなんて。
 こちとら、偉そうなガキのお相手など正直ウンザリなのだ。
 しかしアルトゥーラはベリヒトの内心などつゆ知らず、強引に詰め寄ってくる。
「ベリヒトよ。もう一度訪ねる。あのトルナとかいう女の変貌には、何か理由があるのか。そなたは何を知っている?」
「うるさいんですよ、なにも知らないお飾りの分際でェ」
 思わず本音が漏れてしまう。目の前の小娘の血の巡りの悪さに、ついカッとなってしまったせいだろう。
 さすがにこちらの態度を無礼だと思ったのか、アルトゥーラは「なんだと!?」と眉尻を吊り上げている。
 まあ、今さらどうでもいいか――ベリヒトは「ふん」と鼻を鳴らした。〝死天使〟が発見出来た以上、もはやこの小娘を担ぎ上げる必要などどこにもないのだ。謝罪など、してやる義理もない。
「目障りなので、少し動けなくなってもらいましょうかねェ」
 ベリヒトはおもむろに、義手の先端で彼女の首筋をつかみあげた。
 アルトゥーラが「うぐっ!?」とその身を仰け反らせる。義手の指先に仕掛けている薬品を、彼女の静脈に打ちこんだのだ。
 薬はすぐに効果を発揮したようだ。持ち上げていたアルトゥーラの華奢な身体が、だらん、と弛緩する。たとえ最強の〝熾天使〟クラスの聖戦士であろうと、この薬には抗えない。
 今のアルトゥーラは、赤子よりも無力な存在になり果てていたのだった。
「な、なにをする……!」アルトゥーラの声は、怒気をはらんでいた。「そなた、何様のつもりだ! 神の現し身たる我に、このような狼藉が許されるとでも――!?」
「〝神〟ねェ……。そんなものを本気で信じているなんて、ホントあなたたちって、滑稽ですよねェ」
「どういう意味だ、ベリヒト……! 不敬極まりない今の発言、大司教たるそなたであろうと、破門は免れぬぞ!」
「破門。大いに結構じゃありませんかァ。もともと私は、こんなしみったれた宗教になど興味は無かったのですよ。そもそも私の目的は、ミストのエネルギーを利用した、究極兵器を完成させることなのですからねェ……!」
「究極兵器……。それはいったい、なんなのだ?」
「どうせ、説明しても無駄でしょうねェ……。あなた方のような下等な脳味噌では理解できるとは思えませんので」
 ベリヒトの口調が勘に触ったのか、アルトゥーラが「貴様ァ!」と声を張り上げた。
 つい、やれやれ、とため息が漏れてしまう。他の信者たちの前では気取った姿を見せているこの小娘も、こうしてひと皮むけばただの愚かな子供に過ぎない。
 計画の一部だったとはいえ、こんな子供を教主に祭り上げなければならないというのは、ベリヒトにとってはかなりのストレスだったのである。
 まあ、それも今日で最期ですがねェ――ベリヒトは笑みを浮かべる。
 所詮はこの小娘も含め、すべての聖戦士は踏み台だったのだ。
 トルナード・ヴェイルという完成品が現れた以上、踏み台はもはや必要がない。
「要するに、私にとって『霧の翼』教団は、神気ミストの実験を行う隠れ蓑に過ぎなかったわけです。『聖地』やら『神気の洗礼タオ・フェ』やら……究極兵器の創造という目的にとって、あなた方の教義は非常に都合がいいものでしたからね」
「貴様は、我らを――教団員たちの敬虔な心を利用したというのか? その身勝手な目的のために?」
 アルトゥーラの目は、烈火のごとき怒りに燃えていた。
 愚かな小娘とはいえ、こういう表情は悪くない――ベリヒトは口元を歪める。
 相手が真っすぐな感情の持ち主であればあるほど、その純真を踏みにじるのがたまらなく気持ちいいのだ。これはおそらく、宇宙普遍の真理だろう。
「ええ。利用させていただきました。その点では、教主様には感謝をしておりますよォ。おかげで、目的成就まであと一歩のところまで来られましたからねェ」
 ベリヒトをじっと見つめ、アルトゥーラが尋ねる。
「ベリヒト……貴様、何者だ?」
「さあ、何者なのでしょうねェ」
 答えてやる義理はない。これもまた言ったところで、この地の下等民族どもには決して理解できないことだろう。
 ベリヒトはつかみあげたアルトゥーラを、ダストホールの真上へと運ぶ。これがおそらく、この親愛なる愚かな教主に対して、ベリヒトが行う最後の奉公となるだろう。
 真下で蠢く『彼女たち』を見て、アルトゥーラは「ひっ」と小さな悲鳴をあげた。
「な、なんなのだ! これは……! 我は知らぬぞ! このようなおぞましいものが、足元に存在していただなんて――」
「ここまで役に立ってくれたお礼に、教主様には重要な役目を果たしてもらいましょう。この子たちの核となるという、大事な大事な役目をねェ」
「やめろ……! やめろおおおおおおお!」
 アルトゥーラの甲高い悲鳴が、部屋中に響き渡った。
 つい先ほどまでベリヒトを睨みつけていた彼女の目は、すっかり絶望の色に染まり切っていた。怯えた子犬のように、すっかり目尻を濡らしている。
「我にはまだ、やらねばならぬことがある……! 神気の導きに従い、ひとりでも多くの教団員たちを救わねばならぬのだ! だから、だから――!」
 実に美しい――と、ベリヒトは思う。計画を始めたときから、ずっとこの瞬間が来るのが楽しみにしていたのである。
「感謝してくださいねェ、教主様。あなたの願いを、叶えてあげるのです。あなたはこれから神様になるんですよォ。ある意味でねェ」
 ベリヒトが指先の拘束を緩めると、アルトゥーラの姿は、すぐに見えなくなってしまった。
 いつまでも耳に残りそうな、張り裂けんばかりの悲鳴だけを残して。