最終章 第7話

ロック・シンドラーがその名を授けられたのは、今から十年ほど前のことだった。
 ――あなたはリースラントの荒野に、ひとりで倒れていたんです。生身のまま、神気を吸いこみすぎたせいでしょうねェ。
 寝台で目を覚ましたとき、目の前にいたのはベリヒトと名乗る男だった。死にかけていたロックを救ったのは、彼だという。
 ――ですが、もう案ずることはありません。あなたの身体は常人のものではない。限りなく神に近づいた超人、聖戦士なのです。神気はもう、あなたの味方なのです。
 ベリヒトの言葉通り、ロックの身体は並の人間から大きく外れたものだった。
 肉体は異常に頑強であり、あらゆる病気に罹患することはない。たとえ怪我をしたとしても、よほど重傷でなければすぐに治癒しまう。
 外見上の異常は、より顕著なものだった。腹部を中心に、赤い結晶体のようなものが形成されているのだ。
 この結晶体は「神の御印みしるし」と呼ばれるものらしい。他の教団員たちに言わせれば、「神に近づいた証」やら「非常にありがたいもの」だという。
 しかしロック自身は、特にこれらの変化を喜ばしいものだとは感じなかった。そもそも、これが「変化」であることすら実感できなかったのだ。
 なぜならロックは、己が寝台で目を覚ます以前の出来事を、まるで覚えていなかったからである。
 名前も年齢も出身地も、まるでわからない。「ロック・シンドラー」という名も、巡礼士という立場も、目が覚めてから『霧の翼』によって与えられたものだ。
 自分はいったい何者なのか。どうして荒野でひとり倒れていたのか。まったくわからない。
 唯一おぼろげに引っかかっていたのは、たったひとつの想いだった。
「霧を、止めねば」
 神気、つまり世界を覆う霧を止めることこそが、かつての自分の目的だったらしい。なぜかそのことだけは、頭の片隅にこびりついたように覚えていたのである。
 かつての自分が、いったいなんのために霧を止めようとしていたのか。それはわからない。
 霧に強い憎しみを抱いていたのかもしれないし、どうしても霧から守りたいものがあったのかもしれない。ロックは残念ながら、それを思い出すことはできなかった。
 とにかくロックには、「霧を止める」という思いの他にはなにもなかった。それだけが己を己であると証明する手段だったのである。
 だからロックは、『霧の翼』を裏切ることにした。他人に与えられた人生ではなく、自分自身の人生を生きたい。強くそう思ったのだ。
 教団員としての立場を利用し、霧の謎を探る。幸い、霧を止めようとする集団、GEARSとも渡りがついている。もしもこの裏切りが教団幹部に露見したら、命はないだろう。
 もちろん、危ない橋を渡るのは承知の上である。
 何者でもないロックにとっては、己の想いを貫くことの方が、命よりも大事なことだったのだ。
 そして現在――。
 ロック・シンドラーは、聖地グラウンド・ゼロの中心、教団施設の最下層にいた。この区画の奥には、神気の出ずる場所あるという。GEARSの最終目標、ミスト源だ。
 ロックが、乾いた唇を舐めた。
「ようやく、この日がきたか」
 最下層は常に厳しい管理が行われており、一般教団員の立ち入りは許されていなかった。
 そもそもこの場所の存在自体、知る者も少ないだろう。ロックですら、この場所にミスト源があることを知ったのはごく最近のことなのである。
 それもそのはず。神気ミストを崇める『霧の翼』にとっては、ミスト源の存在は最重要秘匿事項に当たる。常に複数の聖戦士たちにより、難攻不落の要塞のごとき警備が敷かれていたのも頷けるというものだ。
 しかし今日、ついに侵入するチャンスがやってきた。この島にGEARSが攻撃を仕掛けてきたことで、警備が手薄になっているのだ。
 長年待ち望んでいた機会が、ようやく訪れようとしているのである。
「GEARSを待つまでもない。私がこの手で、ミストを止めてみせる……!」

 ロックは暗い洞窟の中を、足早に進む。
 己を証明する、たったひとつの希望の光に向かって。

 グラウンド・ゼロのほぼ中央に、その岩山はそびえ立っていた。
 通称“神気しんきやしろ”――『霧の翼』の総本山である。
 内部の洞窟は、宗教施設として整備されている。「上層」「下層」の二層から成り立っていた。
「上層」は、主に地上に見える岩山部分全体を指す。内部は教団員たちの居住区や修行場、集会場などのエリアで構成されている。
 広間の床には花をモチーフにした文様が大きく描かれ、奇妙な生物を象った像が乱立している。調度品も装飾も、王都ではなじみのないものばかりだ。「上層」は『霧の翼』の宗教色が色濃く出ているエリアだといえるだろう。
 対して岩山の地下空洞部分――「下層」は、「上層」とはまるで雰囲気を異にしていた。神秘的で荘厳な雰囲気が漂う「上層」とは対照的に、「下層」は暗くジメジメとしていて、陰鬱な空気に包まれている。
 その部屋に足を踏み入れた瞬間、ナギは「うっ……」と顔をしかめた。
 部屋全体に漂う屍臭。壁際にうち捨てられた血染めの赤ローブ。あちこちに散乱する、人体の一部と思しき肉片や骨――。それらが、この場所で何が行われていたのかを雄弁に物語っていた。
 この部屋では、なんらかの実験が行われていたのだ。
 それも、胸焼けがするほどに邪悪で恐ろしい実験が。
 喉の奥からこみ上げるものを必死でこらえながら、ナギは近くの処置台に目を向ける。
「ひどいよ、こんなの……」
 処置台の上には、教団員の死骸が仰向けに横たわっていた。
 若い男性だろう。彼の表情には、くっきりと苦悶の感情が刻まれている。よほどの苦痛を味わいながら死んだに違いない。
 目を引くのは、その両腕だった。ひと目で人間のものではないのはわかる。肩口からだらりと垂れ下がっているのは、大鷲のように巨大な翼だった。
 ナギの肩口で、コダチがプルプルと身体を震わせている。この子も恐怖を感じてしまっているようだ。
「まるで梟熊ホロウだ」
 神妙な表情で呟いたのは、第四小隊の隊長、アラシである。
「鳥型エネミーの翼を移植したんだろう。おそらくは、無理矢理にね」
 常日頃から笑顔をモットーとしている彼だが、この区画に下りて以来、その笑顔はすっかり成りを潜めてしまっていた。
 アラシは無表情の奥に静かな怒りを湛えながら、周囲の探索を続ける。
「どうやら『霧の翼』が行っていたのは、コアの生体移植だけじゃなさそうだ。もっと直接的に、人間を改造しようという試みも行われていたみたいだね」
 アラシが手にしているのは、赤黒い染みのついた紙の束だった。ここで行われていた実験に関して、詳細な記録が残されていたらしい。
「人間の身体にエネミーの部品を取り付けてみたりとか……もしくはその逆に、エネミーの身体に人間の脳味噌を移植してみたりとか」
 ナギが眉をひそめる。「どうして、そんなことを」
「さてね。教団員たちの話じゃあ『神に近づくため』らしいけど」
 アラシが手にした紙に目を落とした。その眼差しは、まるで汚らわしいものでも見るかのように、きつく眇められている。
「この記録を読む限りでは、『神に近づく』というよりは、単に化け物を生み出そうとしているだけのようにも思えるね。それも、より戦闘に特化した個体を生み出すことに執心している」
「戦闘に特化……?」
「もしかすると、この教団、戦争でも始めるつもりなのかもしれない。少なくとも、連中がただの宗教団体じゃないっていうのは明らかだね」
 アラシが肩を竦める。
 今回ナギたち第四小隊に課せられた任務は、『霧の翼』本拠地への潜入だった。
 その目的は、彼らが秘匿する情報を奪取すること。第一に求められているのはもちろん、ミスト源の所在に関する情報である。
 現在、外で行われている戦闘は、いわばこのための陽動だと言っても過言ではない。ナギたち第四小隊に求められている役割は、非常に重要なものなのだ。
 さすが、王女直属の諜報部隊というだけのことはある。
「気持ち悪いけど、頑張らなくちゃ」
 ナギは腕まくりをして、資料探しを再開する。
 この区画には、山のように調べるべきものがあるのだ。悠長にやっていたら、外で戦う他の部隊に迷惑がかかってしまう。
 それに――とナギは思う。自分にはもうひとつ、この場所で果たさなければならない目的がある。
 どうしても会いたい相手が、この場所にいるのだ。
「くーん……」
 ナギの肩口で、コダチが心配そうな声をあげた。
「大丈夫だよ、コダチ」彼の頭を撫でながら、ナギは優しく微笑んでみせる。「きっとお父さんにも、もう一度会えるはずだから」
 教団には、ナギの父親、イブキがいる。
 ナギがそれを知ったのは、ついこの間のことだった。ポロ・ウパシでの戦いを終えた後、偶然、その姿を目の当たりにしたのである。
 父イブキは、「ロック・シンドラー」という名を名乗っていた。彼は潜入工作員としてGEARSに所属し、『霧の翼』においてスパイ活動を行っているらしい。
 しかしどういうわけか、彼はナギのことをまったく覚えていなかった。駆け寄ろうとしたナギを、まるで他人のようにあしらってしまったのである。
 他人のそら似という可能性はまずない。多少老けこんではいたものの、あれは間違いなくイブキ本人だった。ナギには断言できる。
 きっと、記憶喪失かなにかなのだろう。
 いったいイブキに何があったのか――それを確かめるために、ナギはこの場所を訪れたのである。
 幸い「ロック」とは、このあと合流する予定がある。ミスト源への道案内役を買って出てくれたのだ。もうすぐ、この場所に現れる頃合いだ。
「お父さんのこと、考えてるのかい?」
 資料を検分していたアラシが、こちらを見ている。
 顔に出てしまっていたのだろうか。少し恥ずかしい。
 ナギは「うん」と小さく頷いた。「お父さんの記憶、戻ればいいなって」
「ちょうどそのことに関してなんだけどさ」アラシが続ける。「聖戦士を生み出す手術――〝神気の洗礼タオ・フェ〟っていうらしいんだけど、それを受けた者の記憶に関して、興味深い記述が見つかったんだ」
「どういうこと?」
「ミストコアを移植された被験者が、脳に変調を来すケースはよくある話らしいよ。ひどい場合には、記憶や人格が変容することもあるそうだ」
「なら、もしかしてお父さんも……?」
「可能性は高いね。彼も『霧の翼』の構成員である以上、ミストコア移植を受けているだろうから」
 ナギはごくりと息を呑んだ。
 お父さんも、『霧の翼』に改造されてしまっていた――。それはナギにとって、少なからずショックな事実だった。
 イブキも、この区画じゅうに転がっている遺体と同じ扱いを受けていたのかもしれない。教団の好き勝手に、身体を弄くり回されてしまっている可能性はある。
 想像するだけで辛い。まるで、自分の身を切り刻まれるような感覚だった。
「ナギくんにとっては辛い話だけど――」
 そう前置きして、アラシが続ける。その声色は、いつもよりもワントーン低い。
「被験者が元の記憶や人格を取り戻すケースは、ほとんどないらしい。残念だけど、そういう実験結果が残ってる」
「そう、なんだ」
 突きつけられた現実は厳しかった。
 せっかく父と再会できたというのに、もうその記憶は取り戻せないという。
「もしも、お父さんの記憶が戻らなかったら――」
 ナギが呟いたそのとき、背後から「ねえ、ちょっと」と声をかけられる。
 声をかけてきたのは、ネコ耳帽子がトレードマークの先輩隊員、ロゼだった。
「これ、見てよ」
 彼女は意味深な表情で、ナギに紙の束を手渡してくる。
 一枚目の見出しには、「特殊吸収型コアの成長可能性について」という文字が大きく印字されていた。難しそうな書類だ。
「なんだろ、特殊吸収型コアって……」
 ナギは首を傾げながら、紙束をぱらぱらとめくる。中には何枚か、モノクロ写真が添付されているようだ。
 その写真を見て、ナギは目を疑った。
「これって――!?」
 映っているのは、いびつな怪物の姿だ。多種多様なエネミーがごちゃ混ぜに掛け合わされたかのような、異様な風体の怪物である。
 ナギにとってその姿は、忘れたくても忘れられるものではなかった。
 つい先日、激闘を繰り広げたばかりの相手だったのである。
「あのときの悪魔キメラ!?」
「どうやら、あいつもここで造られたらしいね」
 ロゼの見つけた情報によれば、この施設ではミストエネミーを改造する研究も行われていたらしい。度重なる改造の結果、他の生物を吸収する特質を持ったエネミーが生まれたというのだ。
 ロゼの要約を聞いて、ナギは「まさか!?」と目を見開いた。
「それじゃああのキメラは、人間が造ったってこと!?」
「信じられないことにね」ロゼが忌々しげに頷いた。「聖戦士って言ったっけ。そもそもここの連中には、人間をエネミーに改造する技術があるんだ。エネミーを魔改造するくらい、平気でやってのけてもおかしくはないよ」
 ナギはごくりと息を呑んだ。脳裏に蘇るのは、キメラに捕食されたGEARS隊員たちの無残な姿だ。
 あのキメラは己の成長のために、人間やエネミーを次々に食い殺していた。並のGEARS隊員では太刀打ちすることすらできなかったのだ。
 獰猛にして強力無比、まさに理不尽を絵に描いたような怪物だったのである。
 ナギたち自身、全滅一歩手前まで追い詰められてしまったのだ。頼みのアラシでさえ、捕食されかけてしまったほどである。
 もしもあのときナギがロータスの力を引き出すことができていなければ、アラシどころか、ポロ・ウパシじゅうの生物が犠牲になってしまっていたに違いない。
「冗談じゃない……!」ナギは拳をぐっと強く握りしめた。「あんな怪物を造って、人を襲わせて……。わけがわかんないよ! なんでそんなことするの!? 教団の人たちは、なにを考えてるの!?」
「教団員たちは真摯に、『神に近づく』ことを目的としているようですが」
 呟いたのは、ロゼの傍らにいた額当ての青年――デュオだ。
 彼は片腕で、器用に資料をめくっていた。デュオの仕草に不便さは感じられない。しかしそれは単に、彼が顔に出してはいないだけなのだろう。きっとデュオのことだ。片腕のみでの行動に慣れるために、影ながら努力を重ねているに違いない。ナギは内心、タフだなあと感心する。
「もしかしたら」デュオが続ける。「教団員たちも、利用されているだけなのかもしれませんよ」
「え?」
「つまり、教団の背後には、彼らを操る黒幕がいる。もしかしたら、その黒幕こそが、我々の敵なのかもしれません」
「黒幕とは、どういうことだい?」アラシが尋ねた。
「これを見てください」
 デュオの手の中にあったのは、黒い箱だった。ガラス製のようにも見えるが、表面には一切の光沢がない。吸いこまれそうなほどの漆黒だった。まるで見たこともない素材で造られているようだ。
「なにこれ」
 眉をひそめるロゼに向け、デュオは「こうするんです」と、箱の側面部を叩いてみせる。するとその瞬間、驚くべきことが起こった。
 
――計画ノ進捗ヲ報告スル。
 
 ナギは思わず「えっ!?」と声を上げてしまった。
 頭の中に突然、声が響き渡ったのである。男性の声とも女性の声ともつかない、奇妙な声だ。そもそも人間の声とも思えない。
 いったい、この声の正体はなんなのか。
 尋ねようとしたナギだったが、デュオが顔をしかめた。「静かに」と、口元に人差し指を立てている。
 不思議な「声」は、さらに頭の中に響き渡った。
 
――“煉獄霧プルガトロン”ニヨル惑星ノ支配ハ、九割ガ完了。惑星ノ完全プラント化マデ、残リ四半期程度ノ見込ミデアル。
――兵器化生物ノ量産モ完了。目標ノ三億体ニ到達。
――現地宗教結社『霧ノ翼』ヲ拠点ニ、サラナル改造個体ヲ研究中。大規模破壊兵器開発ニ着手ヲ開始シタ。
――目下ノ懸念ハ、『みすとぎあ』ナル武器ヲ有スル、原住民ノ抵抗勢力デアル。抵抗勢力ハ“煉獄霧プルガトロン”ヲ止メルベク、反抗活動ヲ開始シテイル。
――抵抗勢力ニハ、増産シタ聖戦士部隊ヲ以テ、対処ニアタル予定。
 
 不可思議な言葉の羅列が、頭の中に響いてくる。
 初めて耳にする単語もあれば、聞き覚えのある単語もある。なんとなく、ぼんやりと意味はわかった。
 少なくとも『声』の主は、自分たちの敵だ。ミストギアを有するGEARSを、完全に敵視している。
 この敵を放っておいたら、世界は大変なことになってしまうかもしれない。
 ロゼもどうやら、同じ感想を抱いているようだ。ナギと同様、不安げな面持ちでデュオの箱を凝視している。
「今の……なに?」
「ふむ――」
 アラシは腕を組み、眉間に皺を寄せている。今しがた聞こえてきた謎の声について、考えを巡らせているのだろう。
 そのままたっぷりと十秒程度考えたのち、彼はおもむろに口を開いた。
「この『声』が何を意味しているのか、現時点で判断するのは早計だろう。ただデュオくんの言うとおり、敵は『霧の翼」そのものではないと考えるべきなのかもしれないね。教団を影から利用する、黒幕が存在しているようだ」
「黒幕……」ロゼが息を呑んだ。
「黒幕が何者なのかはわからない。現時点でわかるのは、そいつ……あるいはそいつらが、我々の想像を絶する存在だということくらいかな」
 アラシの視線は、デュオの持つ黒い箱に向けられている。
「頭の中に声を響かせるなんて超現象、王都じゃ聞いたこともない。ミスト技研の技術力をはるかに超えているよ」
「その通りです」デュオが頷く。「例のキメラに、聖戦士たち。『霧の翼』の技術レベルは、ゆうに我々の数十年先を行くものです。一般的な宗教団体が有する技術力を、大きく逸脱している」
「もしかして、そのあたりのスーパーテクノロジーも全部、黒幕がもたらしたものだってわけ?」
 ロゼの疑問を、デュオは「そう考えるのが自然でしょう」と首肯する。
「さらに言えば、さきほどの『声』の内容から推察すれば、この世界を覆うミスト自体、黒幕の手で生み出されたものという可能性すらあります」
 たしかに「声」は言っていた。「“煉獄霧プルガトロン”ニヨル惑星ノ支配ハ、九割ガ完了」だと。
煉獄霧プルガトロン”というのが、ミストを指すのだということはなんとなく理解できる。“惑星”はナギたちの住む世界のことだろうか。
 この『声』の主たちは、ミストを利用して、この世界を支配することを意図している――そんな風に聞こえてならなかった。
「それじゃあ」ロゼが眉をひそめる。「ミストが生まれたのは……私たちの世界がこんなになっちゃったのは、全部その黒幕のせいってこと……!?」
「そんなの、許せない……」
 ナギの心の中に、ふつふつと怒りがこみ上げてくる。
 思い出すのは、病に伏せる母親の姿だ。霧の病――ミスト症候群に冒された母は、身を苛む地獄の苦しみの中、何年間も布団から立ち上がることさえできなかった。
 付きっきりで看病をしていたナギにも、少しはその辛さを理解できていたはずだ。毎日のように血を吐いていた母の苦しみを、何度代わってやりたいと願ったことか。
 しかしそれは叶わなかった。当時のナギにはただ、衰弱しきって死んでいく母を見送ることしかできなかったのである。
 ミスト症候群に苛まれていたのは、もちろんナギの母親だけではない。根ノ国に暮らす人々も、王都の人々も――世界じゅうが、今も病に苦しんでいる。
 ロゼもデュオも、それからアラシも、一様に表情を険しくしていた。
 ナギと同じ気持ちなのだろう。この世界で生きる以上、ミストによって大事な何かを奪われるというのは、さほど珍しい事ではない。彼らも、他のGEARS隊員も、それからこの世界に暮らす人々も、皆、犠牲者なのである。
 もし本当にミストを生み出した者がいるとするなら、そいつを許すことができないのは当たり前である。
「黒幕って、何者なの……!? いったい誰が、ミストを操ってるっていうの!?」
 ナギが憤りの声を上げた、そのとき。
「黒幕は……神だ」
 背後から、低い声色が響いた。
 とっさに「え」と振り返る。そこにいたのは、赤いフードを目深に被った長身の男性だ。
 彼こそ、ナギがこの場所で、もっとも会いたいと願っていた人物である。
「お父さん……!?」
 ナギに目を向け、その男性――イブキは眉をひそめた。
 やはり、ナギのことはまるで覚えていないのだろう。一瞥しただけで、すぐに目を反らしてしまった。
「神に逆らうことはできない。我々にはもう、未来はないんだ」
 イブキの顔色は悪い。酷く疲労しているのか、肩で息をしているようだ。
 その身体をよく見てみれば、あちこちに酷い傷を負っているのがわかる。特に脇腹に重傷を負っているのだろう。押さえた指の隙間から、どろりと血が染み出している。
「その傷、いったいどうしたの!?」
 駆け寄ろうとするナギを、イブキは手で制した。
「お前には、関係ない」
「関係ないって――」
 ナギが詰め寄ろうとした矢先、イブキの背後から「いたぞ!」と鋭い声が上がった。
 声のする方に目を向ければ、赤いフードの男たちがやってくるのが見える。
 それぞれ、フードの下の顔が結晶体に覆われていた。聖戦士たちである。
「裏切り者に、死の救済を!」
 どうやらあの聖戦士たちは、イブキを狙っているようだ。
 数は五人。いずれも武器を手に、血走った目つきをしている。
「その怪我、あいつらにやられたのか?」
 アラシの問いに、イブキは「下手を打ってしまってな」と顔をしかめている。腹部の傷が痛むのだろう。呻きながら、その場に膝をついてしまった。
「私のことはいい。お前たちは、早くここから逃げろ」
「どうして?」
「連中は手強い。“座天使”と呼ばれる上級聖戦士たちだ。ひとりひとりが首領級エネミーに相当する力を持つ。いくらお前たちが王都の精鋭だろうと、あいつらの相手は――」
 イブキが言い終わる前に、アラシはすでに傘型ギアを構えていた。傘の先端の銃口を、やってくる聖戦士たちに向けている。
 イブキはぎょっと目を見開いた。「おい、何をする気だ!」
「そりゃあ当然、こうするのさ」
 アラシのギアが勢いよく火を噴いた。銃弾の雨が先頭の聖戦士に命中し、そのローブごと蜂の巣にしてしまう。聖戦士の結晶体の破片が、赤い雨のごとくに周囲に散らばった。
「ここでキミをむざむざ死なせるわけにはいかない。任務のためにも、この子のためにもね」
 アラシが、ナギにちらりと目を向ける。
 彼の言うとおりだ。イブキを守らなければ、わざわざここまで来た意味が無い。
 ナギもロータスを腕に装着し、聖戦士たちに向き直る。
「そうだね、アラシさん。やっつけちゃおう!」
 そういうナギを、イブキは信じられないようなものを見る目で見上げていた。「無謀な」と声を震わせている。
 一方、仲間のひとりを倒された敵は、さらなる憤慨を見せていた。
「おのれ、冒涜者どもめ……!」
「やつらに救済を! 速やかな死を!」
 こちらを敵だと見定めたのだろう。聖戦士のひとりが、三つ叉槍を構えて突進をしかけてくる。
 とっさに銃弾で迎撃しようとするアラシだったが、今度の敵にはまるでひるむ様子はなかった。敵は三つ叉槍をくるくると器用に振り回し、銃弾を弾いてしまったのだ。
 アラシは「おっと」と苦笑する。
「なるほど確かに、優秀な敵さんだ。一度受けた攻撃は通用しないと見える」
「そんでどうすんの、隊長」
 尋ねるロゼに、アラシが笑顔を向けた。
「それじゃあ、ロゼくんに任せようか」
「いいけど、手加減はできないよ」
 ロゼがにっと唇の端をつり上げ、手にした斧型ギアを振りかぶった。そのまま前方に踏みこむように、手にした斧を思い切り投擲したのである。
「"迷い猫ストレイ・キャット”!」
 ロゼの手を離れた斧型ギアは、空気を切り裂いて回転する。聖戦士の真正面から、ものすごい勢いで襲いかかったのだ。
 さすがにこれは避けられない――ナギはそう思ったのだが、敵もさるものだった。
「なにを、この程度!」
 聖戦士は槍を力任せに振るい、飛んでくる斧を弾き飛ばしてしまったのである。
 弾かれた斧は部屋の壁に激突し、派手に薬品棚を破壊した。
「さあ、救済の時間だ!」
 丸腰になったロゼに、槍の男が接近する。
「逃げて、ロゼさん!」
 叫ぶナギだったが、ロゼは「問題ないよ」と、余裕の表情を崩さない。
 いったいどういうつもりなのか――壁の方に弾き飛ばされたロゼの斧を見て、ナギは「あ!」と声を上げた。
 斧は、回転の勢いを殺されたわけではなかった。それどころか、ますます勢いをつけて戻ってこようとしている。
 まるでブーメランだ。斧は火花をまき散らしながら回転し、槍の聖戦士を背後から強襲したのである。
 敵もさすがに、背後から斧が襲ってくるとは予想していなかったのだろう。後頭部に斧の強打を受けた聖戦士は、うめき声を上げながらうつ伏せに倒れてしまった。
 その鮮やかな手際に、ナギは「おお!」と歓声を上げる。
「ロゼの斧の補助バーニアに、俺が手を加えたんです」
 デュオが得意げに口を開いた。
「ミストコアの吸収タイムラグを利用して、時間差でバーニアを起動させるギミックを組みこんだんですよ。それを利用すれば、投擲中に方向を変えることなど容易いことです。その変幻自在の軌道は、まさに野を彷徨う野良猫のごとく――」
「はいはい、感謝してるよ。ギアオタク」
 ロゼが呆れたように眉をひそめる。
 槍の聖戦士が倒され、残された聖戦士たちは一瞬顔を見合わせた。第四小隊を明確な脅威だと認識したのだろう。
「冒涜者どもめ! 生きては帰さんっ!」 
 聖戦士たちは武器を振り上げ、一斉に飛びかかってくる。
「ナギさん!」
 デュオに言われるよりも早く、ナギはすでに一歩を踏み出していた。ギア内部のトリガーを引き絞り、『ロータス』をフルパワーモードで発動する。
「お父さん……!」
 ナギが傍らに目を向ける。傷を押さえるイブキの姿が、痛々しく映った。それは子供の頃、憧れていた父の姿ではない。本当のイブキなら「こんな傷へっちゃらだ」と笑い飛ばしていたことだろう。
 しかし、だからこそ。
 だからこそナギは、唇を引き結ぶ。
 今度は私が、お父さんを守る番だ――! 
「――ブッ飛べええええっつ!」
 叫びと共に、ナギはロータスを勢いよく振り抜いた。
 瞬間、空気が爆発する。
 殴ったのは敵の身体ではない。ナギの眼前の空間だ。「ロータス」内部に蓄えられたミストエネルギーを一気に解放したのである。
“フラワリングブラスト”――。アラシに教わったやり方である。多数の敵を相手取る際には、こういう使い方もある、と。
 聖戦士たちは逃げることもかなわず、爆風をもろにその身に受けることとなった。派手に吹き飛び、背後の壁に叩きつけられる。
 設置されていた大型ビーカーが、がしゃんと音を立てて砕け散った。
「な、なんだ、この小娘は……!?」
 聖戦士のひとりが呟き、壁を背にくずおれた。
 どうやら襲ってきた聖戦士たちは全員、気を失ってしまったようだ。あれだけの爆発が直撃したのである。無理もないだろう。 
 ナギは小さく、「ごめんね」と呟く。彼ら自身に恨みはないが、容赦もできない。相手が自分たちの大事なものを奪おうとするのなら、立ち向かうしかないのだ。
 アラシがふう、と息をつく。
「どうやら、なんとかなったみたいだね」
「凄まじいな、お前たちは……」
 イブキは目を丸くしていた。まさかナギたちが、こんなにも軽々と追手を倒してしまうとは思わなかったのだろう。
「戦闘能力は、“座天使”を軽く凌駕している。こんな連中がGEARSにいるだなんて、やつらも予想外だっただろうよ」
「心配しないで」イブキに向け、ナギはにこりと微笑んでみせる。「教団もミストも、必ず私たちが止めてみせるから」
「教団もミストも止める、か……」
 イブキが、ふっと冷たい笑みを浮かべた。じっと地面を見つめるその表情には、どこか投げやりな感情が窺える。
 アラシは、「どうしたんだ?」と眉をひそめた。
「無理なんだ」イブキが吐き捨てた。
「無理って……?」
「ミストを止めることは、絶対にできないんだよ。それこそ、神でもない限りは」

「私」は、真っ暗闇の中にいた。
 なにも見えないし、なにも聞こえない。
 ただひどく寒いだけだ。頭の先から足の先まで、全身の血液が凍り付きそうなほどの寒気に襲われている。
 寒い。寒い。寒い――。
 先ほどまですぐ近くにあったはずの温もりは、すっかり感じられなくなってしまっていた。
「私」はいったいいつから、この場所にいるのだろう。
 五分前? 一時間前? 
 いや、もっと前からかもしれない。十年も二十年も、ずっとこの場所にいたような気もする。
 こんなのは嫌だ――と思う。
「私」には、帰る場所があったはずなのだ。ひとりぼっちだった「私」を受け入れてくれる、優しいひとたちがいたはずなのだ。
 帰りたい。その意志だけが、「私」の身体の中で唯一の熱を発している。
 冷え切った身体を、必死に動かしてみる。暗闇の中、もがくようにして出口を探すことを試みたのだ。
 しかし、「私」の手は空を切るばかりだった。
 何もない。何も見つからない。
 周囲に広がるのは、どこまでも続く無限の闇だ。「私」はこの闇に囚われたまま、永劫の時を過ごさなければならないのだろうか。
 そのときふと、すぐ背後から「ははは」と笑い声がした。
――そなたも所詮は、我々と同じなのだ。
 振り返ってみれば、そこにいたのは金髪の少女だった。赤いローブを纏った、尊大な雰囲気の少女だ。どこかで見覚えがある。
――そなたは完成品。我々は失敗作。それだけの違いよ。
 少女が笑う。
 この子は、いったいなにを言っているんだろう。「私」に理解できたのは、この少女の声が、少し寂しそうな響きを帯びていることだけだった。
――そう、そなただけが特別。我々は、選ばれなかった。

 少女が、悲しげに目を伏せる。今にも泣き出しそうな表情だ。
 その姿があまりにも哀れに見えて、「私」は思わず、手を伸ばしていた。
 すると、どうしたことだろう。少女の輪郭が、溶けるようにゆっくりとその形を変えていくではないか。
 少女の身体は、もはや人間のものではなかった。ぐちゃぐちゃに淀んだ、泥の塊のようになっている。
――キミも、ボクたちと同じなのに。
――おんなじ、化け物なのに。
 泥の塊の中から響いてきたのは、少女ひとりの声ではなかった。
 老人のようなしわがれ声もあれば、子供のように甲高い声もある。まるであの泥の中から、たくさんの人々が声を上げているかのようだった。
――お前も、私たちと同じになればいい。
――そうよ、同じに。
 泥の中から、無数の黒い手が伸びてくる。
 黒い手は、「私」の肩をつかみ、腕をつかみ、足をつかんだ。
 思わず「やめて」と声を上げる。灼けるように熱いのに、なぜかすごく冷たい手。触れられているだけで、意識が遠くなってしまう。
 しかし黒い手は、「私」をはなそうとはしなかった。万力のような強い力で、無理矢理泥の中へと引きずりこもうとしてくる。
 嫌だ――! 「私」は叫んだ。
 わかってしまうのだ。このまま引きずりこまれてしまったら、二度と帰れなくなってしまうだろう。
 抵抗を図っていたそのとき、「私」の右手が、暖かな熱を感じた。
 他の黒い手とは明らかに違う、力強い温もりだ。「私」の身体を、一生懸命に泥から引き剥がそうとしてくれている。
「行くな! トルナ!」
 この手の暖かさを、「私」はよく知っていた。

 ノアートは、ぎゅっと彼女の手を握っていた。
 彼女――トルナード・ヴェイルは処置台の上で、ずっと荒い呼吸を繰り返している。白い肌には火照ったような赤みが差し、全身がびっしょりと汗で濡れていた。
 彼女が意識を取り戻す兆候は、まるで見られない。
「トルナさん、大丈夫でしょうか……」
 支援班のサニィが、不安げな表情を浮かべている。
 彼女の腕の中に抱かれているのは、トルナの相棒のヒヨコ、ピヨニコフだ。彼も彼で、トルナの容態が気がかりでならないのだろう。「ぴよぴよ」という鳴き声には、いつもの威厳はない。
 ここは戦場の後方に設置された拠点のひとつ。第二小隊の医療拠点だ。
 ノアートが目を覚ましたのが、三十分ほど前のこと。気づけばトルナと共に、この拠点に運びこまれ、支援班員に治療を受けていたのである。
 周囲のベッドにも、うめき声を上げる隊員たちが所狭しと寝かされていた。
 外の戦闘は、相変わらず激しいようだ。戦闘不能の負傷者たちが、次々と担ぎこまれている。
 この拠点もまた、第二の戦場のようなものだった。あまりの負傷者の多さに、各隊の支援班員が総出で対処に当たらなければならないほどなのである。
 あのアウラですら、甲斐甲斐しくタオルを搾っているくらいだ。
「ノアートさんも、無理はしないでくださいね。下手をすれば、命に関わっていたかもしれないくらいの大怪我だったんですからー……」
 ノアートはアウラに「大丈夫だよ」と頷き返す。
 本音をいえばやはり、本調子だとは言いがたい。呼吸をするだけで、斬られた部位が熱を持ったようにキリキリと痛むのである。
 アルトゥーラの剣はノアートの腹部を大きく切り裂き、内臓一歩手前にまで至っていたという。あと一センチ深く斬られていたら、確実に命は無かったのだそうだ。
 トルナとアルトゥーラ、超人同士の戦いに首を突っこんだ代償は、生優しいものではなかったというわけだ。
「本当に、危ないところでした」
 エフェメラがトルナの身体の汗を拭きながら、「ふう」とため息をつく。
「ノアートさんが首の皮一枚で助かったのも、先日エルツィオーネさんから受け取ったギアのおかげですね。『持ち主を絶対に守るギア』とはよく言ったものです」
 エフェメラが、壁際に立てかけられたアーマー型ギアに目を移す。
 つい先ほどまでノアートが身につけていた『イージス』だ。前面部の装甲が切り裂かれ、すっかり破損してしまっていた。
 エルには感謝してもしきれない。彼女のたゆまぬ努力のおかげで、ノアートは九死に一生を得たのである。
 必ず生きて帰って、礼を言わなければならない。できれば、第七小隊の全員で。
 ノアートが、再びトルナに目を向ける。
 身体には傷ひとつないはずなのに、彼女の息は荒く、顔色も悪い。目が覚めない原因もさっぱりわからない。
 サニィたちですら、手をこまねいている状態なのである。
「いったいどうしたんだよ。トルナ……」
 異形と化したトルナの暴走は、凄まじいものだった。聖戦士たちを容赦なく叩き潰し、味方にすら襲いかかったその様は、まさに手の付けられない竜巻トルナードだ。
 もし彼女が「戻って」くることができていなければ、今ごろGEARSが全滅していたとしてもおかしくはない。
 彼女の姿は、周囲の者に恐怖を刻みこんでしまったようだ。この拠点で治療を受けている他の隊の隊員たちも、トルナには近寄ろうとはしなかった。遠巻きに、あからさまな嫌悪の視線を向けている者もいる。
「最初から、変なやつだとは思ってた」
「まさか本当に人間じゃなかったとは」
「本当は、敵のスパイなんじゃないのか」
 悪い冗談だ、とノアートは思う。ついさっきまで「人間になれた」と喜んでいた彼女が、またしても味方から距離を置かれ始めている。
 彼女は敵なんかじゃない。暴走なんて、なにかの間違いなんだ――。ノアートはそう声を大にして言いたいところだったのだが、ぐっと飲みこんだ。
 結局自分たちだって、トルナの異変について何もわかっていないのである。こんな状態で口を開いても、他者の感情の反発を招くだけだ。
 エフェメラたちも、それは理解しているのだろう。ぐっと押し黙り、手当てを続けている。
「――まったく、いろいろと厄介ごとを運んでくるわねえ、クズナナも」
 すぐ近くから、ため息が聞こえてくる。
 ため息の主は、独特な服装の女医だ。胸元と太もも部分が大きく開いた、色気たっぷりの白衣姿。最前線の医療拠点に似つかわしいものとも思えなかったが、この衣装は彼女なりの戦闘服なのだという。
 女医に向けて、サニィが問う。
「ジュビアさん。トルナさんの身体のこと、なにかわかりましたか?」
 ジュビアと呼ばれた女性は、「そうねえ」と形のいい唇をつり上げた。手にしているカルテには、トルナの容態に関する情報が書かれているようだ。
 彼女、ジュビア・ミランベルは、医療部隊の長――第二小隊の隊長なのである。
「端的に言えばトルナちゃん、大変なことになっちゃってるわ」
「大変なこと?」エフェメラが眉をひそめる。
「この子の身体の中に、ミストコアがあるのは知ってるわよね。そのミストコアが、臨界状態になっちゃってるの」
 ミストコアの臨界状態――以前、ノアートも耳にしたことがある話だ。
 ミストコアには、ミストを吸収してエネルギーに転換するという性質がある。基本的には、その吸収能力に限度はない。リミッターによる制御が無ければ、ミストコアは周囲のミストを際限なく吸収し続け、エネルギーの飽和状態に至るという。それが臨界状態だ。
 ――臨界状態のコアって、とっても危険なんだよ。
 以前、エルからそんな話を聞いたことがある。
 なんでも、臨界状態を迎えたミストコアは、爆弾とほとんど大差ないというのだ。小石サイズの小型のコアでも、拠点ひとつを吹き飛ばすくらいは容易いらしい。
「さっきの肉体の変化を見たでしょう? 原理自体はミストエネミーや聖戦士と同じ……だけど、トルナちゃんの見せたパワーは段違いだった。あれも、臨界状態のコアのせいね」
 ジュビアが、物憂げな表情で続ける。
「今は落ち着いているように見えるけど、身体の中はいまだにエネルギーのオーバーフロー状態。いつ爆発してもおかしくはないわ」
「ば、爆発っ……!?」アウラが声を裏返した。
「そうねえ」ジュビアが腕を組み、天上を仰いだ。「例えるなら、この子の身体の中で、大型の首領級エネミー十体がまとめて暴れている――という感じかしら」
 ノアートは言葉を失った。首領級十体分のエネルギーなんて、並みの人間に耐えられるわけがないではないか。
「なんで、そんなことに……」
「あのベリヒトという男も言っていたけれど、彼女があの瞬間、教団のボスに『晴嵐せいらん』を奪われたことが原因なのかもしれないわね。あのギアは、彼女にとってのリミッターとして機能していたから」
「ミストギアが、リミッター?」
「ええ。知ってのとおり、ギアに組みこまれたミストコアは周囲のミストを吸収するでしょう? これまでは『晴嵐』のコアが近くにあったせいで、トルナちゃんの体内のコアは、ミストをさほど吸収せずに済んでいたの。……だけど『晴嵐』が敵の手に渡ってしまったせいで、体内のコアが付近のミストを吸収し、急激に活性化してしまった」
「なるほど」サニィが頷いた。「そもそもこの島のミスト濃度は、他の地域に比べて無茶苦茶高いですしね。ここにきて突然活性化しちゃったのは、そのせいかもしれません」
「トルナちゃんにとって、ミストギアは拘束具であり、命綱のようなものだった。逆に言えば……彼女はこれまでミストギアのせいで、隠された力の半分も出せていなかった、ということになるのかしら」
「まったく本当に……トルナくんには驚かされてばかりだよ」
 ふと背後から、ぱちぱちと場違いな拍手が響いてくる。
 その空気の読めない拍手の主は、振り向かずともわかる。フリエレン・ド・アレヴィだ。
「暴発寸前の莫大なエネルギーを、ひとりの人間の身のうちに無理矢理押しとどめているんだから。トルナくんがこんな状態で生きているのは、もはや奇跡だといってもいい」
「奇跡って……」アウラが声のトーンを落とした。「というか、少佐はなんでそんなにニコニコしてるんです。トルナさんの不幸が、そんなに嬉しいんですか」
「違う違う」フリエレンが肩を竦める。「トルナくんの頑張りが、純粋に嬉しいのさ。人を人とも思わない教団の暴虐に、立ち向かっているみたいで」
「ああ、そういうことですかー……」
「なにせトルナくんの体内のミストコアは、前代未聞の超強力な代物だからね。技研でさえ、こんなコアが錬成された前例はない。正直に言えば、今すぐにでも取り出して、この手でじっくり調べてみたいところだけど」
「だったら――」ノアートは口を開いた。「すぐにトルナの身体から、そのミストコアを取り出して下さいよ! コアを取り出しさえすれば、彼女は助かるんでしょう!?」
「いやいや、残念だけど、そう簡単にはいかないんだよねえ」
 フリエレンが肩を竦めてみせる。
 相変わらずの持って回った口ぶりだった。ノアートはつい、苛立ちを感じてしまう。
「キミたちだって知ってるだろ。トルナくんの瞬間治癒能力は、その体内のコアによって齎されているものだって」
「それは――」
「先ほどの暴走によって、彼女の肉体内部はもうボロボロになってしまっているんだ。本来なら、即死してもおかしくはないレベルにね」
「どういう意味ですか」
「要するに」フリエレンはどこか愉しそうに、片眼鏡を押し上げた。「トルナくんを苦しめているのがそのミストコアなら、そんな彼女を生かしているのも、そのコアだってわけ。皮肉なもんだよね」
「コアを取り出したら、トルナは死ぬ……」
 ノアートは息を呑む。サニィやアウラも同様だ。エフェメラなど、すっかり顔を青ざめさせてしまっている。
「それじゃあ、どうすれば……。どうすれば、トルナを助けることができるんですか!?」
 ノアートの言葉に、ジュビアはぎゅっと唇を引き結ぶ。
 その沈痛な面持ちが、雄弁に語っていた。自分たちにできることはなにもないのだ、と。
 しかし彼女にも、医療部隊の長としてのプライドがあるのだろう。決して「無理だ」などと口に出したくはないに違いない。
 逡巡の後、彼女は言葉を選ぶようにして告げた。
「もしもこの子を救う望みがあるとすれば……。『霧の翼』に賭けるしかないかしら」
「あの連中に……?」
 どういう意味なのだろうか。
 ノアートが首を傾げていると、脇でフリエレンが「確かに、それしかないかもね」と頷いた。
「良くも悪くも、ミストコアの生体移植技術は彼らに一日の長がある。トルナくんを救う手立てについても、何らかの情報を有している可能性が高い」
 ジュビアが、「そうね」と頷く。
「潜入したアラシちゃんたちが、なにかを見つけてくれているといいけれど」

 ミストを止めることは、絶対にできない――。
 ナギは、イブキに告げられた言葉をすぐには飲みこむことができなかった。
 ミストさえ止めれば、「根ノ国」の皆が病に苦しむこともなくなる。広い外の世界で、自由に生きることさえできるのだ。
 ナギはそう信じて、ここまで来たのである。
 なのに……その努力は無駄だったというのだろうか。
「どういうことよ。ミストが止められないって……」
 ロゼもデュオも、煮え切らない表情をしている。
 彼らだって、ナギと同じなのだ。それぞれに守るべきものがあり、心の底からミストを止めたいと願っている。
 それが不可能だなんて、信じたくはないだろう。
「教えてくれ、ロック」
 アラシがイブキの目をまっすぐに見つめ、尋ねる。
「キミはミストの正体について、何を知っている? 黒幕が神とは、どういう意味だ?」
「言葉通りの意味だ。そもそもミストは、我々の暮らす世界で生まれたものではない。天より現れたものなんだ」
 イブキが、じっと天井を仰いだ。
 デュオが、「なるほど」と頷いてみせる。
「『霧の翼』風にいえば、まさに神の齎した恩寵というわけですか」
「そういうことだ」イブキが続ける。「七十年前の<煉獄の日>、ミスト源は空から降ってきた。それが全ての始まりだったんだ」
「空から、ねえ」アラシが訝しげに鼻を鳴らす。「つまり、ミスト源の正体は隕石かなにかだったってことかい?」
「いいや、違う。そもそもミストは単なる自然現象や天災の類ではない。そこには確実に、ある者の意志が介在しているのだからな」
「ある者?」アラシが眉をひそめた。「何者だい、そいつは」
 ナギの脳裏をよぎるのは、さきほどデュオが発見した黒い箱だ。
 あの箱にこめられたメッセージの中には、ミストを生み出した黒幕の存在が示唆されていた。
 イブキのいう「ある者」とは、その黒幕のことではないのか。
 ナギは「ねえ」とイブキに尋ねる。
「誰が、この世界をめちゃくちゃにしたの? お父さんは……あなたは、そいつを知ってるの?」
「それは――」
 イブキが答えようとしたそのときだった。廊下の奥から、かつん、かつん、と足音が響いてくる。
「また追っ手?」
 身構えるロゼに、アラシが「いや」と首を振る。
「ただの追っ手じゃないみたいだ。武器は持ってない」
 現れたのは、薄笑いを浮かべた中年男だった。男は奇妙な形の義手の指先を、カチカチと打ち鳴らしている。
 赤いローブを身につけてはいたが、聖戦士には見えない。ナギたちの姿を見ても、「おやおや」と目を細めるだけである。
 この男、どうやら、こちらと事を構えるつもりはないらしい。
 にっこりと、口元を歪めている。
「ネズミが入りこんでいると聞きましたが、あなた方でしたか。ポロ・ウパシでは、ずいぶん世話になりましたねェ」
「誰よ、あんた」
 ロゼが斧を構え、男に向かって突き出した。
 しかし男は、身じろぎひとつする気配はない。「くっくっく」と忍び笑いを浮かべている。
「あの地であなた方に、大事な作品キメラを壊された者ですよ」
「キメラ……!? あれは、お前が造ったのか!?」
 デュオが強く睨み付けるも、義手の男にはまるで悪びれた様子はなかった。「ええ」と温和な笑みを浮かべてみせる。
「お初にお目にかかります。ベリヒトと申します。一応、この教団では大司教……という立場になっていますねェ」
「大司教ね。つまり、お偉いさんなわけだ」
 冗談めかしていうアラシに、ベリヒトが大げさに頷いた。
「ええ、偉いんです。なにせ、この『下層』を預かる重要な役職ですからねェ」
 ナギは改めて、周囲を見回してみる。
 怪しげな実験器具やら、欠損した死体やらがごろごろと転がっているこの区画は、端的にいえば、狂気じみた異空間だった。
 こんな場所を管理しているというこの男――ベリヒトが、まともな人間ではないのは明らかである。
「まあ」ベリヒトが肩を竦める。「その役職も、つい数分前にお役御免になっちゃいましたけどねェ。あの小娘――教主が死んだ時点で、『霧の翼』もお終いですから」
「教主が、死んだ?」
 アラシが怪訝な表情を浮かべる。
 ナギたちにとっては、寝耳に水の事実だった。教主が死んだなんて、そんな話は聞いていない。
 いったい教団内部で何が起こっているというのだろうか。
 驚くナギたちに向け、ベリヒトはさらに驚くべき事を言い放った。
「ついさっき、この手で始末したんですよ。もう用済みでしたからねェ」
 ベリヒトが、己の義手を見つめる。針金のように細いその指先には、かすかに血の跡のようなものが残っていた。
 この男が教主を殺したというのは、紛れもない事実なのだろう。GEARSの知らないところで、事態は急展開を見せているらしい。
「教主を始末したって、どういうことよ?」ロゼが問う。「あんた、何を企んでるの? あんただって『霧の翼』の信者なんでしょう?」
 ベリヒトは「冗談じゃない」と鼻を鳴らしてみせる。
「私は最初から、こんな馬鹿げた宗教に興味などありませんでしたよ。霧を身体に取りこんで神に至るなど……実に愚か極まりない。そんなやり方じゃあ、神どころか、化け物になるのが関の山だというのにねェ」
 ベリヒトの視線が、倒れた聖戦士たちを見つめている。心底彼らを馬鹿にしているかのような、冷え切った表情だ。
 ナギは、ごくりと息を呑んだ。
 この男は薄笑いの下で、いったい何を考えているというのか。その得体の知れなさに、ナギは戦慄を覚えてしまう。
「私がこの『霧の翼』に籍を置いていたのは、ただ単に都合が良かったからに過ぎません。崇高なる目的を果たすためにね」
「崇高なる目的?」デュオが尋ねる。
「ええ。あなた方だって、とっくに気づいているんでしょう? 霧の力を用いて、究極の兵器を作り上げる。それが私の目的です」
 ナギはさきほど、この区画で見つけた資料を思い出す。
 人体改造や、コアの移植。そしてキメラの創造。この場所で行われていた非人道的な研究はすべて、この男のいう目的に直結するものだった。
「その究極の兵器やらを生み出すために、おたくは教団を利用していた、と」
 アラシの問いに、ベリヒトは「そうなりますねェ」と頷いた。
「信仰とは便利なものです。『救い』というエサをちらつかせれば、愚か者どもは勝手に食いついてくる。おかげで、実に短期間で目的に近づくことができましたよ」
 ナギは思わず、「ひどい」と声を漏らしてしまっていた。
「あなた、何様なの……!?」
「何様、ねェ」ベリヒトが、ふと首を傾げる。「あえていうなら、神様……と言ったところでしょうか」
「神様?」
「ええ。この教団の連中が目指していたような、まがい物の神様などではありません。あなたたちにとっての、絶対の上位者……。正真正銘の神様ですよォ」
 ナギは思わず、呆気にとられてしまった。
 この男はなんの臆面もなく、自分で神を名乗っているのだ。まるで正気の沙汰とは思えない。
 ロゼもデュオも同様、完全に絶句していた。こいつは何を言っているんだ――と、石像のように表情を固まらせている。
 一方アラシは、厳しい表情でベリヒトを見据えていた。
「神様でもなんでもいいけどさ、単刀直入に聞かせてもらうよ」
「なにか?」ベリヒトが首を傾げる。
「あんたはさっき言っていたな。ミストを使って、究極の兵器を生み出すのが目的だったって」
「ええ」
「それじゃあそもそも、この世界にミストをばら撒いたのも、あんたなのかい?」
「はい、その通りですよォ」
 まるで躊躇するそぶりもなく、ベリヒトがはっきりと頷いた。
「厳密には〝私〟ではなく〝私たち〟ですがねェ」
 目の前のこの男こそ、黒幕だった。
 あっけなく自供したその姿に、ナギは怒りや驚きよりも先に、気味の悪さを感じてしまう。
 とにかくこのベリヒトという人間は、自分の目的のために他者を犠牲にしておきながら、そのことに何ら罪悪感を抱いていないのだ。
 ベリヒトの邪悪さに比べれば、聖戦士やキメラの存在など取るに足らないものかもしれない。
 こいつこそが、「化け物」だ――ナギは思った。
 ミストに覆われたこの世界では、人と人は助け合わなければ生きていけない。ナギにとってそれは当然のことだと思っていた。
 事実、「根ノ国」でも王都でもそれは同じだったのだ。人々は手に手を取り合って、災厄に抗っている。
 だからこそ、この男が異質に映るのだ。ここまで他者を蔑ろにすることができる人間を、ナギはこれまで見たことがなかった。
 おそらくこのベリヒトという男は、自分以外の他者を、同じ人間だとすら思っていないのだろう。
 ナギはこの男を、どうしても理解することができなかったのである。
 アラシもまた、同様の感情を抱いているようだ。冷静な表情の奥に、ベリヒトに対する強い嫌悪感を滲ませている。
「〝私たち〟ということは、おたくらは、何かの組織なのか?」
「ええ、まあ。そう思っていただいて構いません」
 ベリヒトの視線が、やや上方に向けられる。
「あなたがたのような下等生物に説明したところで、理解できるとも思いませんがねェ……。私はもともと、この世界の者ではありません。この空の遙か彼方――星の海の向こう側からやってきたんですよ」
「星の海の、向こう側……?」
 ナギはごくりと息を呑む。
 星というのは、夜空に瞬く光のようなものだ。地底暮らしをしていたナギには、地上に出てきて初めて目にしたものである。
 あの美しい星空の向こうに、ベリヒトの世界があるということだろうか。
 まるで想像できない。 
「皆さんは、〝私たち〟に選ばれた存在だったのです。〝煉獄霧プルガトロン〟を用いた、兵器開発の実験台としてね」
「〝煉獄霧プルガトロン〟……。それはたしか、あの箱の」
 デュオが呟いた。
 先ほど、彼が見つけた黒い箱を思い出す。あの箱が発したメッセージの中には、確かに「〝煉獄霧プルガトロン〟」という単語があった。
 あの箱はやはり、ベリヒトに関係があるものだったのだ。
「〝煉獄霧プルガトロン〟――まあ、呼び名はミストでも神気でも、なんでもいいんですがね。この霧は、〝私たち〟の世界で生み出されたものです」
 ベリヒトは説明する。
煉獄霧プルガトロン〟はもともと、生態系を変化させるために用いられるシステムである、と。生物を攻撃的に進化させることで、兵器を造りあげる。それがベリヒトの目的だったらしい。
「生物兵器……。つまりおたくらは、ミストエネミーを生み出すために、ミストをばら撒いたってことか」
「なかなか理解が早くて助かりますねェ。仰るとおりですよ」
 ベリヒトが義手の指先で、ぽりぽりと頬をかいてみせた。
「ただ、〝煉獄霧プルガトロン〟による動植物の進化にも、ある程度の限界が見えてしまいましたからねェ。より強力な兵器を作り上げるため、作成した生物兵器に外科的な処置を施すことにしたんです」
「それが、聖戦士やキメラだと?」
 デュオが眉をひそめる。
 ベリヒトは「ええ」と頷いた。
「計画は概ね順調に推移しましたが……ただひとつ誤算だったのは、あなたがた原住民が抵抗の姿勢をみせたことです。まさか我々の〝煉獄霧プルガトロン〟を利用して武器を作り上げてしまうとはねェ。正直、驚きましたよ」
 ベリヒトが、ナギの『ロータス』にじっと目を向けている。
「下等生物とはいえ、あなたがたを侮るべきではないのかもしれません。そもそも究極の兵器の完成の目処がついたのも、あなたがたGEARSのおかげなのですからねェ」
「あたしたちのおかげって……どういう意味よ」ロゼが強く睨み付ける。
 ベリヒトは、愉しげに目を細めた。
「かつて聖戦士としての処置を施した少女が、逃亡してGEARSに渡っていたのです。月日を経て成長した彼女は、究極の聖戦士――〝死天使〟としての覚醒を果たしました。彼女こそが、計画の最後のキーなのですよ」
 逃亡した聖戦士に、“死天使”……。いったいこの男は、何の話をしているのか。ナギには見当も付かなかった。
 しかし、イブキには心当たりがあったようだ。「まさか」と顔を強ばらせている。
 そんなイブキの顔色を見て、ベリヒトは「そういえば」と口元を歪めた。
「あの少女の脱走を図ったのは、あなたでしたね。ロック巡礼士」
「気づいていた、のか……!?」
 驚きに目を見開いたイブキを、ベリヒトは「当然でしょう」と笑い飛ばす。
「私はただ、あなたの裏切りを見逃していただけに過ぎません。被検体の一匹や二匹、いなくなったところで大差ないですからねェ」
 イブキがぐっと下唇を噛みしめる。
 ベリヒトはそんなイブキを見下ろしながら、続けた。
「どこの馬の骨かもわからないあなたを拾い、わざわざ聖戦士の処置をしてやったというのに……。まったく、その恩を忘れて仇で返すなど、言語道断もいいところですねェ」
「言語道断なのは、そっちだろう!」
 イブキがベリヒトを見上げる。その視線には、燃えるような怨嗟がこめられていた。 
「あんな年端もいかない子供の身体を、好き勝手にいじり回して……! 貴様など、神でもなんでもない! 貴様がやっていたのは、悪魔の所業じゃないか!」
 激高するイブキを見下ろし、ベリヒトは「やれやれ」といった調子で肩を竦めた。
「あなたにとっては、どうしても放っておけない存在だったというわけですか。あの娘――トルナード・ヴェイルは」
「トルナード・ヴェイル……!?」
ベリヒトが告げたその名を、ナギは頭の中で反芻する。
 GEARS最強のエース・オブ・エース。トルナード・ヴェイル。
 ポロ・ウパシの戦いで、自分たちに手を貸してくれた女性である。
 思い出すのは、目を奪われるほどに流麗な剣さばきと、それを振るっていた銀髪碧眼の美女の姿だった。
 彼女がいなければ、自分たちはあのキメラを倒すことはできなかっただろう。ナギも深く恩義を感じている。
 そういえば彼女は幼い頃、教団の管理下に置かれていたことがあると聞いた。
それを救出したのは、他ならぬイブキであるとも。
「……この場所ではじめて彼女を見つけたとき、私はそれを、薄汚れた人形かなにかだと思ったんだ」
 イブキが、声を震わせながら語り出す。
「彼女は全身が血にまみれた状態で、寝台に蹲っていた。よほど過酷な処置を受けたのだろう。当時の彼女は喋ることはおろか、涙を流すことすらできない状態だった。心も身体も、完全に壊されていたんだ」
「あのトルナさんが……!?」ロゼが目を丸くする。
「その瞬間、頭に血が上ってしまってな……。だから正直、詳しい状況はあまり覚えていない。気づけば私は彼女を抱きかかえ、この施設からの脱出を図っていた」
 イブキの語る言葉を聞いて、ナギの心臓が、とくん、と跳ねる。
 それは間違いなく、父イブキらしい行動だった。ナギの知るイブキなら、目に映る弱者を見捨てるはずがない。たとえ己を犠牲にしてでも、命がけで守ろうとするだろう。
 記憶を失っていても、やはり父は父のままだったのだ。
 ナギの視線の先で、イブキが続ける。
「巡礼士だった私が、外部に脱出するのはそう難しいことでもなかった。布教の名目で、王都に向かったよ。GEARSなら、あの子を守れると思ったからだ」
「ああ、そうだったね」アラシが頷いた。「キミがGEARSの潜入工作員として活動を始めたのは、その出来事がきっかけだった」
 イブキが「もっとも」と、ベリヒトに恨みがましい目を向ける。
「私の行動など、『霧の翼』の上層部には全部バレていたのだろうがな」
「ええ、その通りですよォ」
 ベリヒトが、ニタニタと気持ちの悪い笑みを浮かべている。
「教団からすれば、あなたの行動は責められるべきものです。しかし結果的にみれば、感謝をすべきなのかもしれませんねェ」
「どういう意味だ」
「だってほら。あのトルナという娘が覚醒に至ったのは、ひとえにGEARSの皆さまのおかげですから。ひいては、あなたの裏切りのおかげとも言えるわけですよ」
「貴様に感謝など、される謂われはないっ……!」
 イブキがぶつけた怒りを、ベリヒトは「おお怖い」と笑い飛ばしてしまった。
「単なる失敗作だと思って放置していた個体が、よもやあそこまでのポテンシャルを発揮してみせるとは思いませんでしたよォ。下等生物同士の絆とやらも、なかなか捨てたものではないのかもしれませんねェ」
 ベリヒトは「そうは思いませんかァ?」と、おどけたように手を広げてみせる。
ナギにはその仕草が、ひどく不快なものに映った。
「彼女のおかげで、究極の兵器はまもなく完成に至ります。あの女の身体の中で成熟したコア……あれこそ、私の求める最後のパーツ。彼女を解体し、そのコアを組みこむことで、私の兵器は究極のものになるのです」
「解体……!?」ナギは耳を疑った。「あなた、トルナさんを殺すつもりなの!?」
「ええ。そうですが、なにか?」
「なにかって――」
「私が欲しいのは〝死天使〟のコアのみですから。それ以外の余分な部分は、廃棄しても問題ないでしょう」
 廃棄――胸糞の悪い響きだった。
 この男は、人間の命をなんだと思っているのだろうか。
「地獄に落ちろ、下衆野郎が……!」
 イブキが、怒りをにじませながらベリヒトを睨みつけている。
 対するベリヒトは、まるで平気な表情だ。「なにが悪い?」とでも言わんばかりに、小首をかしげている。
「皆さんだって牛豚を育てて、その血肉を採取し、糧としているわけでしょう? それと同じですよ。私が聖戦士たちを育てていたのは、〝死天使〟のコアを生み出すため……。そもそも聖戦士というのは、屠殺されるのが前提の存在というわけですからねェ」
「他人を家畜扱いとは……。神様気取りもここに極まれり、ですね」
 デュオの皮肉に、ベリヒトは「くっくっく」と笑う。
「気取り、ではなく、神様そのものなのですがねェ……。あなたがたも、すぐに理解できるでしょう。私の目的が果たされる時が、もうまもなく訪れるのですからねェ」
「悪いけど、そんな時は訪れないよ」
 気づけば、アラシは手にした傘型のギアの先端を、ベリヒトの鼻先に突きつけていた。
「おや?」ベリヒトが首を傾げる。「これは、どういうおつもりですか?」
「おたくの笑顔は、虫唾が走るんだ」
「ほう」
「あんたが神様だろうとなんだろうと、そんなことはどうでもいい。ひとの世界を好き勝手に弄んでくれた落とし前は、ちゃんと付けさせてもらう」
 ロゼやデュオも、すぐにアラシの行動に倣った。それぞれベリヒトの左右から武器の切っ先を突きつけ、その動きを封じる。
「これでもう逃げられないよ、黒幕さん」
「あなたが諸悪の根源だというのなら、話は早い。このまま捕縛させてもらいます」
 ベリヒトの動きは、完全に封じた。ナギも含めて、四対一という状況なのだ。もはや丸腰のこの男に、抵抗する術はないだろう。
 しかしそれでもベリヒトは、まるで顔色を変えなかった。ニタニタと、ナギたちを見下すような笑みを浮かべている。
「私を捕まえて、どうするつもりなのですかァ?」
「そんなの決まってるでしょ! ミストを止めるの! それで、あなたのふざけた計画もぶっ壊す!」
 思わず、ナギは声を荒らげてしまっていた。
 この男の態度が妙に気にかかるのだ。逃げ場のない状況で、どうして余裕を保っていられるのだろうか。
 ベリヒトは「くっくっく」と忍び笑いを漏らしている。
「ミストを止める……ですか」
「何がおかしいのよ」ロゼが眉をひそめる。
「そりゃあおかしいですよ。ミストを止めるなんて、不可能なのですからねェ」
 ベリヒトは笑いながら、イブキに視線を投げかけた。
「ロック巡礼士。あなたはよーくご存じですよねェ。しっかりと、その目で見てきたんでしょうから」
 確かにイブキも先ほどから、「ミストを止めるのは不可能だ」と言っていた。それはいったい、どういう意味なのか。
 ナギが固唾を呑んで見守っていると、イブキがゆっくりと口を開いた。
「端的に言う。ミストの発生源――ミスト源などというものは、この世界のどこにも存在しない。ゆえに、破壊することはできないんだ」
「え……!?」
 ナギは耳を疑った。
 ミスト源は、どこにも存在しない。それはいったい、どういうことなのだろうか。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」ロゼが声を上げた。「ミスト源が無いなんて、さすがに嘘でしょ!? 私たちは、<星脈>の反応を辿ってこの島に来たんだ。この島こそミストが生まれた場所、グラウンド・ゼロだって――」
「ええ、その認識自体は、間違っていませんよォ」
 ベリヒトが、どこか愉しそうにカチカチと義手を鳴らしている。
「この島が始まりの場所だというのは、正しい認識です。確かに〝私たち〟は、七十年前、この地に『パイル』を撃ちこみましたから」
「パイル?」アラシが眉をひそめる。
「ああ、パイルというのは、煉獄霧の発生装置のことですよ。ちょうど皆さんが、ミスト源と呼んでいるものに該当しますねェ」
 デュオが「ん?」と、首を傾げた。
「だとすれば、やはりミスト源はこの島のどこかにあるのではないのですか? 存在しないというのは、どういうことです?」
「あるべき場所に、なかったということだ」
 イブキが暗い表情で呟いた。
「あるべき場所……?」
「ミスト源は、この『下層』のすぐ真下にある。少なくとも私も他の教団員たちも、皆そう聞かされていた。しかし実際、この地下には、なにも存在していなかったんだ」
 イブキは今回の潜入任務をスムーズに遂行するため、あらかじめ『下層』のさらに地下へと侵入していたという。
 しかし、そこに存在するとされていたはずのミスト源は、影も形もなかったというのだ。
「立ち入り禁止の最下層区域は、聖域どころか、ただの廃棄物処理場だった。実験体の死体が、山のように転がっているだけ。ミスト源らしきものは、どこにも見つけることはできなかった」
「どういうことなの……?」
 首を傾げるナギの脇で、アラシが「まさか」と声を上げた。
「ミスト源とは、そもそも形のある物体ではないのか? 液体か気体か……目には見えないなにか、という可能性もある」
 ベリヒトが「へえ!」と感心したかのように目を輝かせた。
「あなた、下等民族にしては頭が回りますねェ! そうです! あなたの言うとおり、パイルとは、ナノマシン型の環境改変システム……! 大気や地面に溶けこむことで、世界を変容させてしまう代物なのです!」
 ナギは「えーと」と、首を傾げる。話がよくわからない。
 アラシが「要するに」と話をまとめる。
「ミスト源とは、特定の物体を指すものじゃない。このあたり一帯の空気や地面が、全てミスト源ということか」
「簡単に言ってしまえば、そうなりますねェ」ベリヒトが得意げに笑う。「この場所を中心に、半径二千メートルの範囲全てが〝煉獄霧プルガトロン〟の発生源だと言えます。大地も、海も、空気も、<星脈>も……すべての元素が、絶えず霧を生み出し続けているんです」
 思わず、ぽかん、と呆気に取られてしまう。
 このあたりの自然そのものが、ミスト源だった――。となれば、ある意味自分たちはすでに、ミスト源を発見していたということだろうか。
 スケールが大きすぎて、まるで実感がわかない。
「どちらにせよ、我々にはどうすることもできないということだ」
 イブキが、深く眉間に皺を刻んでいる。
「ミストの発生源を見つけたとしても、それはこの地に溶けこんでしまっている。我々にはもはや手の出しようがない。ミストは止められないんだ」
 ロゼやデュオは、すっかり黙りこんでしまっていた。反論しようとしても、どう言っていいかわからない――そんな顔をしている。
「まあ、そういうことです」
 ベリヒトが鷹揚に頷いた。
「結局あなたがたは、〝私たち〟にとってはモルモットに過ぎません。〝煉獄霧プルガトロン〟に身体を蝕まれ、生物兵器のエサとなる。その運命からは逃れられないということですよォ」
「そんなの、冗談じゃない――」
 ナギが、ベリヒトにつかみかかろうとしたそのときだった。
 足元に、ずん、と衝撃が響いた。突然、地響きが起こったのである。
「えっ……!?」
 ナギは慌てて、周囲を見渡した。
 音は次第に大きくなり、区画全体が揺れ始める。
 地震だろうか。かなり大きい。まともに立っていることすらできそうもなかった。このままでは、施設そのものが崩壊してしまう可能性もある。
「な、なにこれ!?」
「くそっ、何が起こっている!?」
 ロゼもデュオも、すっかり体勢を崩してしまっていた。
 ベリヒトは最初から、この状況を予想していたのだろうか。慌てるロゼたちの一瞬の隙をつき、悠々と包囲から抜け出している。
「どうやら時間のようですねェ。彼女が、目を覚ましたようです」
「彼女?」ナギが眉をひそめる。
「さきほどから何度も言っているでしょう。究極の兵器ですよォ」
 激しい音と共に、部屋の壁に亀裂が走った。床の一部が崩れ、下のフロアが露わになる。
 ふと眼下を見下ろした瞬間、ナギは息を呑んだ。
 なにかがいる。
 闇の中から、なにかがこちらを見上げている。
 真っ黒で、巨大な怪物……。エネミーだろうか。
 いや、違う。あれはエネミーではない。よく目をこらせば、その身体は無数の人間から成り立っていることがわかる。
 千切れた頭部。折れた手足。絡み合った贓物。それらが幾千幾万も結合し、ひとつの身体を形成しているのだ。
「アァァァアァァァァアァァァ!」
 怪物が、声にならない雄叫びを上げる。
 ナギにはそれがなぜか、もの悲しい嘆きにも聞こえるのだった。

 

 ロック・シンドラーは息を呑んだ。 
「こいつは……!?」
 床下から現れたのは、異形の怪物だった。
 人間の死体を、ぐちゃぐちゃにつなぎ合わせたような怪物だ。
 見えている部分だけでも、かなりの大きさがある。首領級エネミーなど比較にならないだろう。下手をすれば、この〝神気の社〟よりも巨大なサイズかもしれない。
 怪物は胸焼けがしそうなほどの腐臭を、あたりにまき散らしていた。
「まさか貴様、実験体の死骸を使ったのか」
 ベリヒトが「ええ」と、ロックの言葉を首肯した。
「どいつもこいつも使えない失敗作だらけでしたが、慈悲をかけてやったんです。みな、神に至るのを望んでいましたからねェ……。せめて、わたしの作品――究極兵器のパーツとして有効利用してやろうかと」
「有効利用、だと……!?」
「例のキメラ核を用いて、地下のゴミどもを共食いさせたんですよ。それが、究極兵器のボディとなる。さしずめ、デブリキメラ、とでも呼ぶべきでしょうかねェ」

 イカレてる――ロックは思った。
 GEARS第四小隊の連中も、あまりにも下劣なベリヒトの所業に、言葉を失っているようだ。
 ナギと呼ばれていたリボンの少女も、拳をわなわなと震わせていた。
 彼らが憤る姿を見て、ベリヒトはますます機嫌を良くしているようだ。
「〝煉獄霧プルガトロン〟もデブリキメラも、あなたがたの力では止めることはできません。まあせいぜいそこで震えながら、この神の兵器が完全な姿になるのを見守っていてください」
 ロックは、「くそっ」と拳で地面を叩く。ベリヒトの言うとおりだ。自分には、この状況をどうすることもできない。
 そもそも、ミストが止められないとわかった時点で、自分たちは負けているのである。
 ミストを止めることだけが自分の全てだった。だがそれは、最初から不可能なことだったのだ。
 結局自分は、空っぽな人間に過ぎなかった。ロックを支えていたちっぽけな信念は、とうに崩れ去っていたのである。
「私たちにできるのは、結末を受け入れることだけ……か」
 両手を地につけ、ロックはうなだれた。
 どのみち、自分たちに未来はない。こうなればせめて、安らかな最期を願うしかないのだろう。
 怪物――デブリキメラは、ますます巨大に膨れ上がっていた。寝台や手術機具を飲みこみながら、部屋全体を圧迫し始めているのだ。
 それはまるで、巨大な壁である。壁はロックらを押しつぶすべく、徐々ににじり寄ってくるようだった。
 このまま、あの壁に呑まれてしまえば楽に逝けるだろうか。ふと、そんな考えが頭をよぎる。こんな状況ではもはや、抵抗するだけ無駄だろう。
 しかしそのとき、ロックは信じられないものを目の当たりにした。
 壁の前に、立ちはだかった者がいたのである。
「……こんんのおおおおおおおっ!」
 リボンの少女、ナギだ。彼女は両手に装着したミストギアで、デブリキメラの壁を懸命に押しとどめようとしているのだ。
「なにを、している……!?」ロックが問う。
「決まってるでしょ! まずは、こいつをなんとかしなくちゃ!」
 ナギは、当然のようにそう答えた。
 ロックにとっては、まるで理解できない行動である。そもそも、こんな巨大な怪物を人の力でなんとかしようとするなど、どう考えても無茶なのだ。
「馬鹿か、お前は……!」ロックは首を振った。「だいたい、この怪物をなんとかできたところで、私たちにはミストを止めることはできない! 全部終わりなんだ! もうみんな、死ぬしかないんだよ!」
「私は、そうは思わない」
 両手のギアで壁を押さえつけながら、ナギははっきりと呟いた。
「心が絶望に負けなけりゃ、きっとこの世界は変えられる。そうでしょ?」
「なにを、言っている……!?」
 この少女の言っていることなど、しょせんは子供の戯言だ。挫折を知らない幼稚な理想論である。
 頭ではそう理解しているはずなのに――なぜか、ロックの心は熱く震えていた。この少女は本当に世界を変えてしまうのではないかと、そんな錯覚に陥ってしまったのだ。
 ロックの視線の先で、ナギが大きく息を吸った。拳のギアが青く発光しているのは、十分なエネルギーが蓄えられたせいだろう。
 ナギは振りかぶった右拳を、そのままデブリキメラに叩きつけた。
「ぶっ壊せない壁なんか、ないんだ!」
 インパクトの瞬間、部屋中の空気が震えるような轟音が響きわたる。
 凄まじい威力の右ストレートだ。ロックの眼前に迫っていた壁は、跡形もなく千切れ飛んでしまっている。
 デブリキメラは大きく身を震わせ、「アァァァアァァ!」と悲鳴を上げていた。
「ぶっ壊せない壁なんかない……」
 ロックは自然と、ナギの言葉を反芻していた。ふつふつと胸に湧き上がってくるこの感情の正体は、いったいなんなのだろうか。
 ナギがくるりと振り向き、ロックを見据える。
「見ててね、お父さん。今度は私が、お父さんを助ける番だから」
 それは不思議と、懐かしさを感じる笑顔だった。